やまねこの物語

散歩 ミュンヘンの音楽史

ミュンヘンは音楽の都としてドイツ国内でも重要な位置にあり、オペラやオーケストラなど世界的にも評価が高い。中世ではバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家統治の下、ゼンフル Ludwig Senfl(1486-1542)や ラッソ Orlando di Lasso(1532-94)<太字名は当ページ「ミュンヘンと有名人」で紹介しています。>らが活躍した。近代ではヴァーグナー Richard Wagner (1813-83)が活躍し、リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss (1864-1849)が生まれた街としても有名であり、現在はコンサートやオペラが非常に盛んに上演されている。

ミュンヘンの音楽の歴史はまず宮廷から始まった。王宮レジデンツにある聖ゲオルクホールやヘルクレスザール、中庭では17世紀頃からオペラや演奏会などが催され始めた(現在でもそれらは使用されている)。ヴィッテルスバッハ家の宮廷楽長として仕えた主な音楽家はゼンフル、ラッソ、ケルル Johann Kasper Kerll(1627-93)、ダッラバコ Evaristo Felice Dall'Abaco(1675-1742)、ポルタ Giovanni Porta(1690-1755)など。

1653年選帝候フェルディナント・マリアの時代、本格的なオペラがミュンヘンで初めて上演され、1657年には宮廷劇場が完成した。その後ミュンヘンのオペラは急速に発展し、選帝候マキシミリアン3世ヨーゼフの時代、建築家クヴィリエ Francois de Cuvillies(1695-1768)はヨーロッパで最も美しいロココ劇場といわれるクヴィリエ劇場を建築(1753年完成)し、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart(1756-91)もこの劇場のために『イドメネオ』を作曲した(初演1781年1月29日)。そのモーツァルトは1763年宮廷作曲家を希望して選帝候マクシミリアン3世ヨーゼフの前で演奏したが、結局彼の願いは叶わなかった。しかしその後ミュンヘンのオペラ界は以前にもまして発展する。

1818年バイエルン王マクシミリアン1世ヨーゼフの時代、建築家フィッシャー Karl von Fischer(1782-1820)の設計により市民のために王立劇場(現バイエルン州立劇場)が建設された。この劇場は1823年1月14日焼失するが、ビール税により2年後建築家クレンツェ Leo von Klenze(1784-1864)のもと元通りに復元された。

1830年バイエルン王ルートヴィヒ1世の時代、ヴィッテルスバッハ家の宮廷歌手フランツ・レーレ Franz Loehle が現在のミュンヘン音楽演劇大学の起源となる声楽学校を設立した。その学校は1865年リヒャルト・ヴァーグナーの提案により、バイエルン王ルートヴィヒ2世によって、バイエルン王立音楽学校と生まれ変わる。初代校長は宮廷楽長ハンス・フォン・ビューロ。1860年代彼の指揮の下、王立劇場でヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が初演された。ヴァーグナーを庇護した王ルートヴィヒ2世のもと『ニーベルングの指環』の4作のうち『ラインの黄金』『ヴァルキューレ』も王立劇場で初演される。またこの王の時代、主にオペレッタを上演するためにライフェンシュトゥール設計の下、ゲルトナープラッツ州立劇場が建設されフランツ・レハールなどが指揮をした。

この王が即位した1864年リヒャルト・シュトラウスが生まれた。彼は王立劇場の名ホルン奏者を父に、ビール屋の娘を母にもち、1886-98年ミュンヘンで指揮者として活躍した。ミュンヘンでの彼の最初のオペラは『グントゥラム Guntram』(1894)。ミュンヘン初演の彼の作品は『平和の日』『カプリッチョ』がある。またミュンヘンを舞台にしたオペラ『フォイヤースノート』も手がけた。

1901年バイエルン王オットー1世(摂政<プリンツレゲント>ルイトポルト)の時代、ヴァーグナーのオペラを上演するためにバイロイト祝祭劇場を手本にプリンツレゲンテン劇場が建設された。この劇場では1917年ブルーノ・ヴァルター指揮でプフィッツナー『パレストリーナ』、1957年ヒンデミット指揮でヒンデミット『世界の調和』が初演され、クナッパーツブッシュ指揮でシャルパンティエ『ルイーズ』がドイツ初演された。

バイエルン王立劇場は1836年フランツ・ラッハナーが主席指揮者に就任したあと、ハンス・フォン・ビューロらが、20世紀にはブルーノ・ヴァルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウスらが音楽監督を務めた。第二次世界大戦でこの劇場は破壊されたが1963年バイエルン州立劇場として以前と同じように再建され、カイベルトを音楽監督に迎え同年11月21日R.シュトラウス『影のない女』、23日ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で復活した。そのカイベルトは1968年ヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』指揮中に倒れて死去した。その後ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ペーター・シュナイダー、ズービン・メータが音楽監督を務めて現在に至る。現在はドイツ・オペラだけでなくイタリア、ロシア・オペラなど幅広いレパートリーを持っている。

ところで現在のバイエルン州立劇場のオーケストラ(2000年団員数141人<以下数字は2000年のもの>)は16世紀に創設され、ミュンヘンで最も古いオーケストラである。ミュンヘンにはそのオーケストラ以外に幾つかのオーケストラがある。ミュンヘンを代表するオーケストラの一つであるミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 Muenchner Philharmoniker は1893年創立者フランツ・カイムの名前を取ってカイム管弦楽団として活動を始めた。1901年マーラーが交響曲4番をこのオーケストラで初演し、11年にはブルーノ・ヴァルターが『大地の歌』を初演した。その後、フェルディナント・レーヴェ、ジークムント・フォン・ハウゼッガー、オスヴァルト・カバスタが指揮を務めた。

1928年カイム管弦楽団は組織的にミュンヘン市のオーケストラとなり名前をミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(130人)と改めた。R.シュトラウス、ブッシュ、ハンス・クナッパーツブッシュらが客演指揮し、戦後はハンス・ロスバウト、フリッツ・リーガーが主席指揮者として活躍した。その間、クナッパーツブッシュ、クラウス、シューリヒトなどが何度も客演している。その後はルドルフ・ケンペ、チェリビダッケ、ジェームス・レヴァインが主席指揮者として活躍。このオーケストラは1895年に建設されたガスタイク・フィルハーモニー(大ホール、座席数2387)で主に活動している。

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と並んでミュンヘンを代表するオーケストラはバイエルン放送交響楽団(118人) Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks でこれは1949年バイエルン放送局専属オーケストラとして設立された。同年7月31日の創立特別演奏会はR.シュトラウス指揮の下行われた。初代主席指揮者はオイゲン・ヨッフムでその後はラファエル・クーベリック、コリン・デイヴィス、ロリン・マゼールが主席指揮者を務め現在に至る。

ミュンヘンには上記の3つのオーケストラ以外にゲルトナー州立劇場オーケストラ(77人)Orchester des Staatstheaters am Gaertnerplatz 、ミュンヘン放送管弦楽団(71人)Muenchner Rundfunkorchester 、ミュンヘン交響楽団(59人)Muenchner Symphoniker 、ミュンヘン室内管弦楽団(21人)Muenchener Kammerorchester など他にも多数活動しているオーケストラがある。またオーケストラ以外に合唱団も幾つかある。バイエルン州立歌劇場合唱団、バイエルン放送合唱団など劇場、オーケストラ所属の合唱団以外に有名なものに、ミュンヘン・バッハ合唱団がある。これはカール・リヒターやハンス=マルティン・シュナイトが指揮した。

ところでミュンヘンでは現在二つの大きな音楽祭が行われている。一つはミュンヘン・オペラ・フェスティヴァル Muenchner Opernfestspiele でこれは1875年宮廷楽長カール・フォン・ペルファルの開催したものが、現在も毎年夏開催されている。会場はバイエルン州立劇場、クヴィリエ劇場、プリンツレゲンテン劇場など。もう一つの音楽祭は2年に一度5月に開催される国際現代音楽祭のミュンヘン・ビエンナーレ Muenchener Biennale Internationales Festival fuer neues Musiktheater で歌手、作曲家、演出家、台本作家、オーケストラ、劇場音楽に関して開催される。

ミュンヘンの音楽史は宮廷と非常に強い結びつきがあり、宮廷と共に発展した。戦後は今まで以上に市民のものとなりオペラ、コンサートなど非常に盛んに公演されている。新しい人材発掘のためにミュンヘンでは国際コンクールも行われている。ミュンヘン国際音楽コンクール Internationaler Musikwettbewerb der ARD でこれは1952年に設立された。そこから新たな演奏家が生まれる。

ガスタイク

ガスタイク

レジデンツ・ヘルクレスザール

レジデンツ・ヘルクレスザール

バイエルン州立歌劇場

バイエルン州立歌劇場

プリンツレゲンテン劇場

プリンツレゲンテン劇場

ミュンヘンフィル発祥の地にある碑

ミュンヘンフィル発祥の地にある碑

 

 

 

menu
「散歩」のトップに戻る