やまねこの物語

散歩 ミュンヘン・オリンピック 1972年

ドイツのオリンピックといえばベルリン・夏季オリンピックとガルミッシュ・パルテンキルヒェン・冬季オリンピックを思い浮かべる人が多い。両者とも1936年ドイツ第三帝国下で開催された。アドルフ・ヒトラーが大会組織委員会総裁になり、国民を挙げて大会を開催した。そのベルリン大会ではオリンピック史上初めて聖火リレーが行われ、またこれをレニ・リーフェンシュタールが記録映画として撮影し、ヴェネチア映画祭で金賞を受賞した。ガルミッシュ・パルテンキルヒェン大会、こちらも第三帝国と大きく関係がある。冬季大会開催条件に見合う街にするためドイツ政府は二つの街を統合し、開催権利を獲得した。

第二次世界大戦後、廃墟と化したミュンヘンは街の復興に努め、1960年からミュンヘン市長を務めるフォーゲル Dr.Hans-Jochen Vogel (ドイツ社会民主党)は1972年ミュンヘンにオリンピック夏季大会を誘致することに成功した。1965年西ドイツ(当時)・ミュンヘンは他の立候補都市(デトロイト、マドリッド、モントリオール)に比べ遅く立候補したが、施設が何も出来ておらず、開催までの6年間に新たに整備できるという利点から翌年1966年国際オリンピック委員会の投票で61票中31票を得て第20回オリンピック夏季大会の開催地として選ばれた。その後街は急速に整備され、地下鉄(U-Bahn)と市内と郊外を結ぶ近郊電車(S-Bahn)が開通した。<当時オリンピック中央駅は地下鉄3番(U3)、8番線(U8)、近郊電車8番線(S8)の終点>(現在、オリンピック会場に通じる地下鉄は利用されているがS-Bahnの駅は利用されていない。)

オリンピック開催のためにその費用としてドイツの国が全体の50パーセントを、バイエルン州が25パーセント、ミュンヘン市が25パーセントを出費することになり、合計で12億8000万マルク(当時)がそのために計上された。

オリンピック会場には以前草原で、その後練兵場、軍用飛行場となった場所が選ばれた。ここは第二次世界大戦で破壊された建物の瓦礫が集められ公園として整備されている。オリンピック会場(3平方キロメートル)である現オリンピック公園の建物、つまりオリンピックスタジアム、ホール、プールなどは建築事務所ギュンター・ベーニッシュとフライ・オットーの設計で特徴あるアクリルガラス板のネット状屋根で構成された。長楕円形のオリンピックスタジアムは78000人収容出来る。これらの建設のために1億7000万ドイツマルク(当時)の費用がかけられた。(一部の競技は市内のメッセゲレンデ、英国庭園、リームなどで行われた。)

またテレビ塔(現オリンピック塔)は290メートルの高さ。オリンピック会場北にはオリンピック選手村(高層マンション群)が建設され、主に男性(9000人)が滞在し、女性(1800人)は主に2階建ての建物に滞在した。その他ディスコ、映画館、劇場などの施設も建設された。

聖火リレーはギリシャからミュンヘンまで5538キロメートルを5758人のランナーが29日と7時間をかけて行われた。7月28日にギリシャを出発した聖火はその後トルコ、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビア(当時)、ハンガリーを通過しオーストリア(ウィーン、リンツ、ザルツブルク、インスブルック)からドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヒェンに入り8月25日ミュンヘン・ケーニヒ広場に到着した。26日開会式の日、当時西ドイツの陸上競技少年の部1500メートルの記録を持っていたパッサウの18才の学生がオリンピックスタジアムの聖火台に点火した(点火式には日本からKenji Kimihara氏も参加)。その後聖火リレーはカッセル、アウグスブルク、ハノーファー、ハンブルク、キールへと続いた。

開会式で西ドイツ大統領グスタフ・ハイネマンが第20回オリンピック夏季大会開会を宣言。ミュンヘン・オリンピックのテーマ曲は作曲家ヘルベルト・レーバインの作品「Die Olympia-Fanfare von Muenchen」でバイエルン放送交響楽団と空軍音楽隊によって演奏(指揮ヴィリー・マテス)された。このオリンピックは1936年ベルリン大会でのドイツ第三帝国のイメージを吹き払うために「heiteren Spielen」というモットーで計画されたが、当時の西ドイツと東ドイツが初めて別々の国家として入場行進し、また国旗や国歌もそれぞれの国のものにされ、東西ドイツ統一チームとはならなかった。

1972年は夏季大会がドイツ・ミュンヘンで、冬季大会が日本・札幌で開催された。それを機にミュンヘンと札幌は姉妹都市となった(現在ミュンヘンの新市庁舎には、姉妹都市の紋章があるがその中に札幌のものもある)。日本はミュンヘン・オリンピック開催を記念して英国庭園に日本茶室を建設した。

1972年8月26日から9月11日まで開催されたミュンヘン・オリンピックは21競技195種目実施され、121の国と地域7121人が参加した。この大会で柔道種目が復活。またこの大会で男子水泳でマーク・シュピッツ(アメリカ)が出場した全7種目全てで世界新記録を出し金メダルを獲得という快挙を達成した。メダル獲得総数は(金、銀、銅、合計の順で)、ソ連(当時)が50、27、22、99で最高数、以下アメリカ33、31、30、94、東ドイツ(当時)20、23、23、66、西ドイツ(当時)13、11、16、40、日本13、8、16、37(日本は特に体操競技で活躍、この種目だけで金5、銀5、銅6個のメダルを獲得)、以下オーストラリア、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、イタリアと続く。

ミュンヘン・オリンピックは新しく生まれ変わったドイツをイメージし、また天候にも恵まれ、まさにそのイメージ通り開催されていたが、開会してから11日目の9月5日早朝、イスラエル選手団が選手村で自動小銃と手榴弾で武装したアラブのテロ集団(8人)に襲撃された。イスラエルの選手団の一人は前日夜、ドイツ劇場でミュージカルを楽しんだあと他のメンバーと一緒にシュヴァービング地区のディスコ「Shalom」に出かけ早朝4時20分頃選手村に帰宅した。その時侵入したアラブ人に捕らえられ射殺された。彼は一ヶ月前に父親になったばかりであった。またもう一人のイスラエル人も撃たれ死亡した。その時点で二人のイスラエル人選手が殺害され、9人が人質にされた。午前4時55分アラブ人の集団はイスラエルに捕らえられているアラブ人の解放、飛行機での逃亡などを要求した。6時40分には警察によって選手村が封鎖された。

午前9時、何も起こっていないかのようにバレーボール、日本対西ドイツが開始された。この時点では警察やオリンピック委員会などは、その事件の全容をまだつかめず、テロ集団の人数も分からなかったので、市民にはまだ完全に報道されていなかった。15時バスケットボール準決勝、エジプト対フィリピン戦が始まったがエジプトの選手は現れずフィリピンの不戦勝となった(エジプト選手団は翌日エジプトへ帰国)。15時38分になってようやく国際オリンピック委員会会長から事件のこと、オリンピック競技の一時中断と追悼式典の翌日開催が発表され、16時10分、その日予定されていた全ての競技の中止が発表された。

21時テロ集団は建物から脱出するためのバスを要求。22時6分彼らはバスに乗り、近くに待機してあった西ドイツ国境警備隊の2機のヘリコプターに乗り移った。22時22分ヘリコプターは上昇し、ミュンヘン市の西に位置するフュルステンフェルトブルックの空軍飛行場へと飛んだ。そこにはカイロへ飛ぶための飛行機ボーイング727が準備されていた。22時35分ミュンヘンの治安警察などが待ち受ける空港に人質を乗せたヘリコプターが到着。22時38分、テロ集団の二人がヘリコプターの操縦士に銃口を向けて降りてきて、操縦士にその場にいるよう命令。同時にテロ集団の別の二人がボーイング内を確認した。彼らがヘリコプターに戻ろうとしたとき警察が発砲。銃撃戦が始まりヘリコプターの操縦士を見張っていた二人のアラブ人が射殺された。別のアラブ人は自動小銃を発砲し、また別のアラブ人一人が射殺された。

22時50分テロ集団はドイツ語、英語、アラブ語で警察部隊に向かって武器を捨てて降伏するよう要求。その時、警察の装甲車などが到着。22時51分プレスセンターの代表が空港で起こったことを700人の報道関係者に対し簡単に説明した。そこから23時35分テレビが「人質は全員解放されテロ集団の多くは射殺された」と(勝手な想像をして)報道する。23時50分、プレスセンター代表が報道に反論。

翌日9月6日午前0時10分、テロ集団の一人が1機のヘリコプターから飛び出し、点火された手榴弾をヘリコプターに投げつけ、彼は暗闇の中へ逃亡を図ったが警察官に射殺される。その後ヘリコプターは爆発し、別のテロ集団の一人はもう一機のヘリコプター内で縛られている人質全員を射殺した。テロ集団の一部はその混乱中に逃走。1時32分最後の銃撃戦。結果的に8人のテロ集団の内5人が射殺され、残りは逮捕された。警察部隊の方でも銃撃戦の際に一人が犠牲となり、その他多くの負傷者が出た。2時40分プレスセンターの代表が公式会見をして事件について報告した。

追悼式典ではベートーヴェン「エロイカ」がミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(指揮ルドルフ・ケンペ)によって演奏された。結果的にこのテロでイスラエルの選手11人、ドイツ人警察官1人が死亡した。現在選手村のその地にはドイツ語とヘブライ語の追悼碑(2003年春まで工事のため取り外されてある)があり、またオリンピック会場へと向かう橋に慰霊碑が建てられてある。

現在オリンピック公園は市民憩いの場として利用されている。また夏のイベントTollwoodや、その他色々な催しの会場として使われている。スタジアムはドイツサッカー(ブンデスリーガ)一部リーグ、バイエルン・ミュンヘンと1860ミュンヘンのホームグランドとして、ホールは主にポップコンサートの会場として利用されている。晴れた日にはオリンピック塔やオリンピック山(海抜564メートル)からアルプスを望むことが出来る。

新市庁舎壁にある碑

新市庁舎壁にある碑

姉妹都市の紋章

新市庁舎壁にある姉妹都市の紋章

第二次世界大戦の瓦礫が運び込まれる

第二次世界大戦の瓦礫が運び込まれる

日本茶室

日本茶室

オリンピック公園

オリンピック公園

オリンピックスタジアム

オリンピックスタジアム

オリンピック施設

オリンピック施設

オリンピック湖、オリンピックプール、オリンピック塔

オリンピック湖、オリンピックプール、オリンピック塔

かつての選手村

かつての選手村

選手村内にあるプール

選手村内にあるプール(浅くて泳げない)

世界各地の時間が分かる時計

選手村内にある世界各地の時間が分かる時計

S-Bahn の駅

S-Bahn の駅

S-Bahn の駅

S-Bahn の駅
現在は資材置き場に

S-Bahn の線路

S-Bahnの線路
現在は使用されていない

イスラエル選手団追悼の碑

イスラエル選手団追悼の碑

オリンピック山にある十字架

オリンピック山にある十字架

聖火

聖火
今も燃え続けている

 

 

 

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