やまねこの物語

散歩 ミュンヘン協定 1938年

ミュンヘン協定は1938年9月29、30日ドイツ・ミュンヘンで、ヒトラー(ドイツ)、ムッソリーニ(イタリア)、チェンバレン(イギリス)、ダラディエ(フランス)の4ヶ国首相がチェコスロヴァキア(当時)のズデーテン地方をドイツに帰属させることを決めた協定。

第一次世界大戦終戦後、中央ヨーロッパを支配していたオーストリア・ハンガリー帝国の君主制が終わり、その一部からチェコ人、スロヴァキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ポーランド人などからなる多民族国家チェコスロヴァキア共和国が生まれた。1930年には人口は1775万人を数えたが、多民族から構成される国家ゆえ、それぞれの民族間で様々な闘争があった。中でもズデーテン地方(28291平方キロメートル)にはチェコ人約8万人に対し、約350万人のドイツ人が生活していた。

ズデーテン地方のドイツ人はチェコスロヴァキア政府にズデーテン・ドイツ人の自治を要求したが政府は拒否し、この地方のドイツ人はチェコスロヴァキア内の少数民族として政府に大きな不満を持つようになった。特に隣国ドイツでナチスが政権を執ると、ズデーテン・ドイツ人の民族意識はより強くなり、住民の不満を利用しこの地方のズデーテン=ドイツ人党は勢力を伸ばした。またドイツ政府も支援し、ヒトラーは1938年9月になると問題解決のためには武力行使も辞さないと表明した。

フランスとソ連(当時)はそれぞれ1924年、1935年にチェコスロヴァキアに対する援助条約を結んでいたので、ズデーテン・ドイツの問題が大きな戦争に発展する危険が生まれた。1939年9月14日イギリス政府はドイツ政府に平和的解決のための緊急会談を申し入れ、チェンバレン首相は生まれて初めて飛行機に乗り、15日午後12時30分ミュンヘンに到着した。ヒトラーとチェンバレンの会談でチェンバレンはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を分離することに同意し、イギリス帰国後閣議でも同意を取り付ける。18日イギリスとフランス両政府首脳はロンドンで会談し、いかなる代償を払っても戦争を避け、チェコスロヴァキアに「ズデーテン地方をドイツに割譲」という英仏共同提案を受諾させることを話し合った。

9月19日チェコスロヴァキア・ベネシュ大統領、20日同国クロフタ外相は英仏共同提案を拒否し、大統領はソ連公使にソ連の意向を打診するが、満足いく協力を得ることは難しかった。21日深夜就寝中のベネシュ大統領は英仏両国公使の訪問を受け、英仏提案受諾を強要される。22日ハンガリーとポーランド両国はチェコスロヴァキア政府にそれぞれ自国人が居住する地域の割譲を要求。同日チェコスロヴァキア政府ホッジャ内閣辞職。24日ドイツ政府はチェコスロヴァキア政府に対しズデーテン地方の割譲を要求。同日フランスは戦争に備え、軍動員令を発する。

9月25、26日イギリスとフランスは会談し次のことを確認。「フランスがチェコスロヴァキアとの条約義務で対独戦開始の場合、イギリスはフランスを支援する。」 26日チェコスロヴァキア政府は対ドイツ戦のため国民総動員令を発する。イギリスも外務省が明確に参戦の意思を表明。アメリカ・ルーズベルト大統領は「直接利害のある国家は会談をすべき」と発表。27日イギリスは軍動員令を発し、学童疎開なども始められる。ユーゴスラヴィアとルーマニアはハンガリーに対し「チェコスロヴァキアを攻撃した場合、両国は軍事行動に出る」と警告を発する。イタリアは国境に軍隊を移動。

こういった状況の中、チェンバレンはムッソリーニに会議開催の仲介を依頼する。ヒトラーはムッソリーニの調停申し入れを受諾し、9月29日正午ミュンヘンで国際会談を行うことを決める。同日12時45分から、チェコスロヴァキアのズデーテン地方の問題を扱う国際会議がドイツ、イタリア、イギリス、フランスの首脳により、ミュンヘンにある総統官邸で行われた。この会議にはソ連が排除されていただけでなく、当事国であるチェコスロヴァキアは会議への参加が許されず、会議の隣室で結果を待つ身であった。

29日12時45分から始まった会議は30日午前1時30分、4ヶ国によってミュンヘン協定が成立し、8項目からなる協定書、付属協定、3つの付属宣言が1938年9月29日付けで署名された。午前2時15分チェンバレンは隣室で待っていたチェコスロヴァキア代表に結果を報告。代表は落涙。30日正午頃、チェンバレンはヒトラーの私邸を訪ね、ドイツ・イギリス共同の不可侵宣言を発表し「平和確保のためのドイツ・イギリス関係の維持」との共同声明を発表。チェコスロヴァキア新首相シロヴィーはミュンヘン協定を受諾。

ミュンヘンでは会議中、首脳会談で結論が出ず戦争になるのではないかという不安があったが、ミュンヘン協定発表後、全ドイツに向けて「ズデーテン・ドイツ問題が平和的に解決した。戦争に至らず平和的に解決出来たことに対し総統に感謝する」と発信され、ミュンヘンはお祭りムード一色となった。ミュンヘンの司教も結果を祝福しミュンヘン市内の教会の鐘を鳴らさせた。ミュンヘン市内の通りは平和的解決を喜ぶ市民で一杯になり、また多くの人がビアホールなどで祝杯を挙げた。一部の市民はダラディエの滞在していたホテル前に集まり、祝福の意を示した。別の市民もチェンバレンを平和の使者として賞賛。このミュンヘン協定は当時、イギリス・フランスの対独宥和政策の頂点となった。10月1日ドイツ軍はズデーテン地方に進軍。この侵攻はナチス・ドイツが平和裡に行った最後の外国侵略となった。

 

総統官邸

ミュンヘン会談が行われた総統官邸
(現ミュンヘン音楽演劇大学)

カウフィンガー通り

ミュンヘン会談時のカウフィンガー通り

 

 

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