やまねこの物語

散歩 スウェーデン軍によるミュンヘン占領 1632年

1618年からドイツ全土で戦争(三十年戦争)が起こり国内は荒廃した。この三十年戦争はカトリック対プロテスタントでそれぞれ両派の諸侯が同盟を結成し戦争を行った。この戦争は大きく次の4つの時期に分けることが出来る。1.ベーメン戦争(1618-23)、2.デンマーク戦争(1625-28)、3.スウェーデン戦争(1630-35)、4.フランス=スウェーデン戦争(1635-48)。この戦争は1648年のウェストファリア条約で終結した。この戦争でオーストリア、スペインのハプスブルク勢力に対し、ドイツ、フランス、イギリス、オランダなどが同盟し、それまでハプスブルク中心だったヨーロッパで反ハプスブルクの国家も独立国家としてハプスブルクなどと対等の国際関係を持つこととなり、そういった意味で近代外交史はこの条約から始まったといわれる。

先に書いた三十年戦争の第三時期、スウェーデン戦争でスウェーデン王グスタフ・アドルフは北ヨーロッパの覇権とバルト海の制海権を狙い、ハプスブルクの強大化を恐れたフランスから軍資金を得てプロテスタント養護の名のもと、ドイツに侵入した。1632年4月プロテスタントのスウェーデン軍は南ドイツに侵入し、ミュンヘンの郊外まで軍を進めた。当時バイエルンの選帝候マクシミリアン1世はレーゲンスブルクに滞在しており、またヴィッテルスバッハ家や他の名士、修道院などは女性をザルツブルクやチロル地方に避難させた。

スウェーデン軍は1632年の聖霊降誕祭の日曜日(5月16日)、ミュンヘンに入城し、翌17日王グスタフ・アドルフはフライジングからイズマニングを通り、イザール門から、彼が“やせ細った馬の黄金の鞍”と称したミュンヘンに入った。500人以上の農民の若者は街を守るためミュンヘンの門に配置されたが、ミュンヘン市民には武装したスウェーデン軍の前に抵抗は無意味だと思われ、市長リグザルツは鍵を渡し、街を王に引き渡した。王は300.000グルデンという莫大な金額を要求した。これはスウェーデンの半年分の財政に値する額であった。もしくは20.000頭の馬を差し出すことを要求した。これはミュンヘンの人口20.000人と同じ数で、支払わなければ街を略奪し破壊すると王は脅した。そのために王はミュンヘンの門周辺に穴を掘らせ、そこに火薬を入れさせた。

市民は努力したが最終的に104.380グルデン、つまり要求された金額の約3分の一しか工面することが出来ず、また貴金属なども集め更に40.568グルデン分集まったが、まだ要求額には届かなかった。それ故、グスタフ・アドルフは6月7日軍を移動させ、まだ支払われていない金額のため、42人の名士(その半数は聖職者)を人質として捕らえアウグスブルクに拘禁した。ミュンヘン市民はスウェーデン軍に抵抗することもなく、その状況下で新たに生活を始めた。スウェーデン軍の兵士は王によって厳しく規律を守らされ、例えば私腹を肥やそうとした者などにはマリエン広場の中心で縄に掛けるといった罰が与えられた。王自身も接収することが若干少なくなった。

7月7日には王は滞在していたレジデンツを放棄し、アウグスブルク方面へ移動したが、その際彼は図書館や美術館などから価値ある物をまとめて一緒に持って行かせた。彼がミュンヘンのレジデンツから略奪した物の一部はストックホルムまで運ばれ、その他の物はミュンヘンやスウェーデンまでの途中の街で売られた。彼は人質も売ろうと考え、アウグスブルク、ビベラッハ、ドナウヴェルト、ネルトリンゲンまで引きずり回した。ミュンヘン占領からちょうど半年後の11月16日、彼はドイツの他のプロテスタント軍と連合して、リュッツェンの戦いでドイツの皇帝軍を破ったが彼も戦死した。

スウェーデン王グスタフ・アドルフの死から2週間後、彼を継いだプファルツ公フリードリヒ(当時36歳)はミュンヘンで捕らえた人質の買い戻しについて条件を出した。大量の塩と引き換えというもので、1635年選帝候マクシミリアン1世はその条件を受け、人質42人は捕らえられてから3年後の1635年4月3日になって初めてミュンヘンに帰ることが出来た(4人は拘禁中に亡くなった)。

またスウェーデン軍が撤退(1632年)したあと1634年にはスペイン軍がミュンヘンに滞在し、その時にペストを街に持ち込んだ。結果ペストが蔓延し1634年8月から翌1635年2月までその苦しみは続き、少なくともミュンヘンの人口の3分の一が犠牲となった。ペストが治まった1635年選帝候マクシミリアン1世は街に戻ってきたが、特に市民の出迎えなどもなくひっそりとしたものだった。彼はそれ以前(1620年)、ペーター・キャンディードによる聖母教会の中央祭壇画『マリアの被昇天』制作を支援し、彼自身聖母マリアに対する信仰が厚かった。1635年ミュンヘンが無事に解放されたことに対し彼は聖母マリアに感謝し、ミュンヘン(バイエルン)の守護として聖母マリアに感謝する記念碑を街の中心マリエン広場に建設することを1935年9月11日、個人的に決断した。

その記念碑マリエンゾイレ(聖母マリア像の柱)の聖別式は1638年の万聖節のあとの最初の日曜日であった11月8日に行われた。金色の聖母マリア像は1593年にフーベルト・ゲルハルトによって作られたもので、1620年まで聖母教会の中央祭壇として使われていた(1620年以後、選帝候がその制作を支援した中央祭壇画『マリアの被昇天』が置かれた)。1639/40年には台座に翼を付けた子供の像が作られた。これは元々聖母教会のために制作されたもので、4角それぞれの子供像はドラゴン(飢饉)、ライオン(戦禍)、バジリスク(ペスト)、ヘビ(不信仰、異端)と戦っている。このマリエンゾイレは選帝候の個人的な記念碑として建設されたが、この碑は三十年戦争のミュンヘンの受難を示しているとして市民の反発もなかった。三十年戦争後、ミュンヘンの経済は落ち込んだが、その後人口も増え、1648年には合計で1089人の子供が洗礼を受けた。これはそれまでの平均よりも約300人多い。そして1651年に選帝候マクシミリアン1世は亡くなり、新たに選帝候となったフェルディナント・マリアのもと、ミュンヘンでイタリア文化が花開く。

マリエンゾイレ

マリエンゾイレ

聖母マリア像

聖母マリア像

バジリスクとヘビと戦う子供像

バジリスクとヘビと戦う子供像

ドラゴンとライオンと戦う子供像

ドラゴンとライオンと戦う子供像

マリエンゾイレと新市庁舎の塔

マリエンゾイレと新市庁舎の塔

 

 

 

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