やまねこの物語

散歩 スペイン継承戦争とミュンヘン

1700年スペイン王カルロス2世が亡くなると血縁関係からフランス「太陽王」ルイ14世とドイツ皇帝レオポルト1世がそれぞれ相続権を主張した。しかしフランスがスペインを併合すると、スペインの広大な海外領土もフランスの支配下に置かれることになり、ヨーロッパの勢力均衡が破れるので、イギリス王ウィリアム3世はドイツ皇帝などと対仏同盟を結んで、フランスとスペインの合併に反対し戦争を起こした。この戦争は1713年ユトレヒト条約、14年ラシュタット条約で終結し、最終的にフランスとスペインは合併しないことを条件にルイ14世の孫フィリップ(後のフェリペ5世)がスペイン王となった。

そのスペイン継承戦争でバイエルンの選帝候マックス・エマヌエルはフランスと同盟し、オーストリア・イギリスと戦ったが、1704年7月2日ドナウヴェルト近くのシェレンベルクで戦争に敗れた。選帝候がブリュッセルにいる間、彼の妻がミュンヘンに残って指揮を執り、11月から始まる講和条約のために準備させていた。また彼女は警備のためレジデンツに400人の兵士を置いていたが、1700年から工事が始まった防御施設は取り壊されており、兵器庫にも武器は残っていなかった。そして彼女が1705年5月5日ヴェネツィアに滞在して留守の時、オーストリアは8000人からなる軍隊で街を包囲し完全な降伏を要求した。

ミュンヘン市民は武装したオーストリア軍に抵抗は無意味だと感じて降伏し、2816人のオーストリア軍は抵抗なくミュンヘンに入城した。もちろん若干の抵抗はあったが、すぐに鎮圧された。市民は無駄な抵抗をせず、金額(11.028グルデン)をオーストリアに支払ったが、ミュンヘンは1705年5月16日から1715年1月23日までオーストリアの完全な支配下に置かれ、オーストリア行政におけるバイエルンの主都とされた。そして税金も2.5倍に引き上げられ、またバイエルンの新兵はオーストリア軍としてイタリアやハンガリーに派遣された。その他ミュンヘンは各国の部隊の滞在地として利用された。滞在地となったことに対し市民は怒りを感じたが、特にそれはカトリックの街に多くのプロテスタント兵がいたからであった(ミュンヘンで初めてのプロテスタント礼拝は1799年まで待たなければならない。それほどプロテスタントはミュンヘンでは認められていなかった)。

そのような状況にあった1705年、『(オーストリア)皇帝の悪行の中で腐っていくより、バイエルン人として死を望む』をスローガンにミュンヘンで反乱が起こった。そのために1705年12月15日の夜、郵便局員フランツ・クサファー・ヒールナーは、市の外交官でワイン商人のヨハン・イェーガー、タル地区のワイン商人ゲオルク・キュットラー、タル地区に住むビール醸造業者ゲオルク・ハルマイヤーと相談し、反乱計画を建てた。それは東から3000人の農民などとミュンヘンに入り、ミュンヘンの水道施設を停止しオーストリア軍を降伏させようとするものだった。

そして1705年のクリスマスの日(12月25日)、彼らは鉄工業セバスチャン・ゼンサー、宮廷調理師エンゲルハルト、学生トーマス・パッサウアーとともに3000人のほとんど武装していない農民とともにシェフトラルンからミュンヘンに向かった。しかしその計画はすでにオーストリアに漏れ、農民たちの集団はオーストリア軍に包囲された。その農民たちの一部はイザール門側で殺害され、また彼らのうち約250人がゼントリング地区の教会に逃げ込んだが、そこで全員虐殺された(これは『ゼントリングの聖夜の悲劇』と言われる)。その集団の首謀者たちの一部はウィーン政府によって1706年1月29日マリエン広場で斬首か四つ裂きの刑になり、また逃げることが出来た者もその後捕まえられ、3月19日同じように処刑された。ゼントリングに逃げ込んだ農民は南バイエルンのコッヘルの鍛冶屋マイヤーの下に集まったもので、現在ゼントリングのその場所に「コッヘルの鍛冶屋像」が建っている。

ところでバイエルンが戦争で敗れた1704年7月2日、その日にフライジングの司教は大きな危険を感じ、ミュンヘンから敬虔な信者であるマリア・アンナ・リントマイヤーを呼び寄せた。彼女はこれまで神を「体現」し、司教は彼女からこれからのバイエルンの運命を聞き出そうとした。7月5日タル地区のワイン商人の孫娘である彼女は宮廷役人の娘と共にフライジング大聖堂を訪れた。3日後彼女はミュンヘンの終わりを預言し、それを避けるためには三位一体教会の建設が必要だと述べた。そして彼女が言ったように貴族、聖職者、中産階級の市民が教会建設を誓願した。

彼女が預言した9日後には聖母教会で宣誓が行われたが、寄付は予期していたほど集まらなかった。ミュンヘン市内にこれ以上の教会が必要かという考えが市民にはあった。聖ミヒャエル教会だけでなく、別の教会でも新たな教会建設に異議が唱えられた。しかし最終的にジョヴァンニ・アントニオ・ヴィスカルディが教会建設を発表し、1711年11月定礎式が行われた。同年から建設工事が始められ、1710年ビュルガーザール教会建設で彼を助けた市壁建築技師のヨハン・ゲオルク・エッテンホーファーが協力した。しかし1713年ヴィスカルディは死去し、それ以後はエンリコ・ズッカーリがあとを継ぎ、1716年三位一体教会が完成した。

その教会が完成する前に、最初に書いた条約が結ばれ終戦となった。選帝候マックス・エマヌエルは1715年になって初めてバイエルンに帰ってくることが出来た(4月10日夜11時頃)。彼が帰ってきたあと、皇太子カール・アルブレヒトとオーストリア皇帝ヨーゼフ一世の娘であるマリア・アマリエの結婚が決められ、バイエルンとオーストリアの関係は以前より良くなった。そしてバロック時代を迎えミュンヘンはアザム兄弟、エンリコ・ズッカーリ、ヨーゼフ・エフナーなどが活躍し、中部ヨーロッパで最も華やかな街となった。

三位一体教会

三位一体教会

フライジング大聖堂

フライジング大聖堂

 

コッヘルの鍛冶屋像

コッヘルの鍛冶屋像

 

 

 

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