やまねこの物語

散歩 ミュンヘンと魔女裁判

中世ヨーロッパにおいて、キリスト教が確立していくにつれ、その教えに反する信徒が増加し、教会は彼らを排除するために異端審問という制度を始めた(13世紀頃)が、これはいつしか信仰とは関係のない人々を裁く魔女裁判となっていった。というのは街を支配する者にとって、異端(魔女)は神を冒涜する者であり、また政治的にも混乱をもたらす者とされた(言い換えれば、政治的混乱をもたらす者は異端、魔女とされる)。

異端追放はスイスで始められ、その後神聖ローマ帝国領、フランス、イングランド、スコットランド、北イタリア、スカンディナヴィア、ポーランド、チェコに拡がった。それらは特に1560-1730年の間活発に行われ、それに関する裁判は少なくとも60000以上、犠牲になった者は約10万人から12万人と言われ、その半数が神聖ローマ帝国内で行われた。特にヴュルツブルク、バンベルク、トリアー、ケルンなどで盛んに行われた。逆にフランクフルト・アム・マインやレーゲンスブルクでは少なかった。

そういった異端追放・魔女裁判はドイツの他の街同様ミュンヘンでも実施されたが、現在その具体的な裁判数、犠牲者数などは分かっていない。ミュンヘンで初めて魔女裁判が行われたのは1578年。その後90年代までにミュンヘンでは50人以上が処刑されている。黒魔術師以外に再洗礼した人、馬泥棒、教会で略奪した人なども裁判に掛けられた。この時代、人々は魔女や迷信におびえ、拷問などで自白を強制された人もいた。

1590年、この年聖ミヒャエル教会の聖別式が予定されていたが、同年5月突然、教会の塔が崩壊した。それは魔女の仕業と判断された。その同じ年4人の女性(名前はレギーナ、アンナ、レギーナ、ブリギッタ)が魔女として訴えられた(彼女たちが訴えられた「きっかけ」は謎)。彼女たちは現在のテアティーナ教会に当たる場所、当時は城壁に接した建物内に住んでおり(シュヴァービング小道、現テアティーナ通り34番地)、一般的に魔女とされる風貌をしていた。つまり老婆であった。

彼女たちの信仰告白は拷問形式で行われ、また彼女たちはそれぞれ、ウンプストブラウス、クレフレ、フィベス、ラゲネールと悪魔の名前で呼ばれた。結果、彼女たちは4年前、悪魔との契約のために、彼女たちの魂、身体、所有物を悪魔に与え、また悪魔の要求により、キリスト教における行動や神を拒否したとされた。それ以外に悪魔から毒の入った薬を譲り受け、それを畑や様々なワイン貯蔵室にまいたとされた。同年6月2日、彼女たちに火刑の判決が下された。彼女たち以外に1600年6月29日に6人、同年11月27日に5人が魔女の疑いで処刑された。ミュンヘンで最後の魔女裁判とされる1721年には宮廷厩番の娘が火刑に処された。

魔女裁判は一般市民だけでなく、宮廷なども巻き込んだ。当時、ミュンヘンを統治していた大公ヴィルヘルム5世は豪勢な生活をし、また反宗教改革の一環として聖ミヒャエル教会を建設し、国家的に絶えず金銭的問題が起こっていた(教会建築が国立銀行をほぼ破綻状態に追い込んだ)。そこにヴェネチアで有名なイタリア人錬金術師マルコ・アントニオ・ブラガディーノは、大公のために鉛から金を作ることを約束し、その製造のために莫大な金額を要求した。彼はそれで一年間友人の所に滞在していたが、1590年不審に思った大公からミュンヘンに来るよう要請される。彼は36人の従者と共に街にやってきて、審問を受けたが死刑判決を受け、1591年4月26日金箔を張られた絞首台で処刑された。また彼の飼っていた二匹の犬たちも、悪魔の使いとされ絞首台の下で銃殺された。

ミュンヘンで火刑や絞首台による死刑執行はほとんど市の中心部、マリエン広場で行われた。またその際、聖ペーター教会の鐘が鳴らされた(聖ペーター教会の鐘は8つあるが、そのうち一つが「死刑執行の鐘」<14世紀製造>とされていた)。

マリエン広場

聖ペーター教会の塔から見たマリエン広場

聖ペーター教会

聖ペーター教会

 

 

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