やまねこの物語

散歩 ドイツ第三帝国建築

中世ドイツの神聖ローマ帝国、ビスマルクのドイツ第二帝国に対してナチス・ドイツはドイツ第三帝国と呼ばれる。初めての中央集権国家となった第三帝国の首都はベルリンだが、ナチズムの運動はミュンヘンから始まった。総統アドルフ・ヒトラーはその聖地ミュンヘンをナチズム発祥の地としてふさわしい街にするために都市改造計画を作成していたが、実際には第二次世界大戦が始まり実現されなかった。

ミュンヘン・ケーニヒ広場に面して建つ現在のミュンヘン音楽演劇大学の直ぐ側にナチス建築についての看板が立てられてあったが、数ヶ月前(現在2001年11月上旬)にイタズラされ、その後撤去され現在もまだ立て直しされていない。(2002年修復された。)このページにある写真は、その看板にあった写真を中心にミュンヘン市立博物館に展示されてあるものを撮影したもの、自分の撮影した写真で構成されています。

 

ミュンヘンの都市計画

ミュンヘンの都市計画モデル

この大きなモニュメントは党のモニュメント、奥の建物が新しいミュンヘン中央駅。現在のライム駅 Laim あたりに建設予定。中央駅の大きさ(高さ)は聖母教会よりも大きい。新しいオペラ歌劇場の建設も予定されていた。
 

ケーニヒ広場の建設計画モデル

ケーニヒ広場の建設計画モデル(総統官邸側)
 

ケーニヒ広場を石畳に

ケーニヒ広場を石畳に
 

ルートヴィヒ1世が造営したケーニヒ広場は当時石畳だったが終戦後、殺風景ということで芝生が植えられ現在の姿になる。この広場には総統官邸や党本部などが置かれ、広場では党の催しや行進などが行われていた。現在もコンサートなど色々な催し物がなされる。左下の写真、ケーニヒ広場を左右対称に建物が建つ。左に総統官邸、(左の)栄誉堂、道を挟んで(右の)栄誉堂、党本部が見える。正面の道奥にはオベリスクの立つカロリーネン広場など見ることが出来る。

ケーニヒ広場

1930年代後半のケーニヒ広場

1936年のケーニヒ広場

1936年のケーニヒ広場

1943年のケーニヒ広場

1943年のケーニヒ広場
カモフラージュされている

ケーニヒ広場

現在のケーニヒ広場

 

総統官邸は終戦後、アメリカ軍に接収され現在はミュンヘン音楽演劇大学の校舎となっている。左の写真に見える鷲の紋章は現在は外されてある。建物内もほぼ当時の作りが残り、総統執務室は現在一般的な音大の部屋になっている。またこの部屋からだけ外のベランダ(バルコニー)に出ることが出来る。またこの建物で1938年ヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)、チェンバレン(英)、ダラディエ(仏)の各首脳が集まりミュンヘン会談が開かれ、ミュンヘン協定が成立した。またこの建物のトイレは男性用の方が女性用より広い。それからこの建物地下2階は(おそらく)当時のまま残され、生活できるだけの設備が整った部屋がある。同じ地下2階には道を挟んで反対側にある党本部と繋がっている通路がある。

総統官邸

1930年代後半の総統官邸

総統官邸

総統官邸総統執務室

総統官邸総統執務室

鷲の紋章あと

鷲の紋章あと

地下2階

地下2階

通路

通路

 

総統官邸と党本部の間に建つ二つの栄誉堂は柱だけの建物として建設された。写真をよく見てみると、その規模はそれほど小さくない。上の回廊も人が3、4人並んで歩けるくらいの幅になっている。この建物は1923年のヒトラーによるミュンヘン一揆の犠牲者に捧げるために造られた。栄誉堂の中には犠牲者のお墓が並んでいた。戦後、連合軍に爆破され、現在は土台の部分だけが残り、雑草や木が生い茂っている。

栄誉堂

1930年代後半の栄誉堂

栄誉堂跡

現在の栄誉堂跡

栄誉堂

栄誉堂

栄誉堂

栄誉堂

栄誉堂

栄誉堂
奥に見えるのはグリプトテーク

栄誉堂

栄誉堂(総統官邸側)
正面(広場側でない方)には衛視が立っている

総統官邸とそっくりの建物である党本部は総統官邸と同じく鷲の紋章がかけられていた。外観が同じなのに対し建物の内部構造は総統官邸とは大きく違っている。現在この建物は図書館や州立グラフィック収集館として使われている。総統官邸とは地下で繋がっている。また総統官邸横にはブラウンハウスという建物もあった。

党本部

1930年代後半の党本部

党本部

現在の党本部の建物

党本部と栄誉堂

党本部と栄誉堂

ブラウンハウス

ブラウンハウス

ナチスはミュンヘンをドイツ芸術の中心都市にしようと計画し、そのために“芸術の家 Haus der Kunst”が4年近い歳月を費やし建設された。1937年7月にはここで「大ドイツ芸術展」が催された。現在この博物館は、名前もそのまま“芸術の家(州立現代美術館)”としてピカソやムンクなど現代美術を展示している。

芸術の家

1930年代後半の“芸術の家”

芸術の家

現在の“芸術の家”

ケーニヒ広場は第三帝国下、色々な行事に利用された。先にも書いたがケーニヒ広場にある音大側、正確には栄誉堂の土台横にケーニヒ広場周辺の第三帝国建築を示す左一番下の写真のような看板があったが撤去されてしまった(2002年修復)。また総統官邸の総統執務室バルコニーから見たケーニヒ広場は1930年代後半当時とは全く違った風景となっている。

新兵宣誓式

1938年11月19日
ケーニヒ広場での新兵宣誓式

書物焼却

1933年5月10日
ケーニヒ広場での書物焼却

ミュンヘン一揆犠牲者移送

1935年11月9日
栄誉堂へミュンヘン一揆の犠牲者が移送される

大ドイツ芸術展記念パレード

1937年ケーニヒ広場での大ドイツ芸術展記念パレード

看板

看板

ケーニヒ広場

ケーニヒ広場(総統官邸総統執務室のバルコニーから)

 

その他、第三帝国期に建てられた建築

食糧農林省

食糧農林省

“ドイツ法の家”

“ドイツ法の家”

帝国砲兵将校部隊

帝国砲兵将校部隊

空軍司令部

空軍司令部

州立税務署

州立税務署

“新南部都市”

“新南部都市”

“ドイツ医師の家”

“ドイツ医師の家”

地上防空壕

地上防空壕

ノルトバート

ノルトバート

旧マックス大公宮殿、現州中央銀行

旧マックス大公宮殿、現州中央銀行

ハーケンクロイツ装飾

ハーケンクロイツ装飾

ハーケンクロイツ装飾

ハーケンクロイツ装飾

1933年には最初のナチ収容所としてダッハウ強制収容所が建設された。本来は政治犯の収容が目的とされていたが、終戦前にはユダヤ人が多数を占めていた。また第三帝国建築ではないが、1938年ミュンヘンのユダヤ教会(シナゴーグ)が破壊された。

ダッハウ強制収容所

ダッハウ強制収容所

シナゴーグ跡

シナゴーグ跡(1938年6月9日破壊)

 

 

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