やまねこの物語

散歩 神聖ローマ帝国首都としてのミュンヘン

1294年2月ミュンヘンを統治していたヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ厳格公が亡くなり、彼の息子である兄ルドルフ1世(1274-1319)と弟ルートヴィヒ4世バイエルン公(1282-1347)がミュンヘンを共同統治することになった(1294-1317)。彼ら兄弟が共同統治するといっても、弟のルートヴィヒは当時まだ12才で実際は兄のルドルフが一人で統治していた。彼らは子供の時から不仲で、成人してからもその状況が続き、結局当時36才のルドルフがミュンヘンなどの南オーバーバイエルンを、27才のルートヴィヒがインゴルシュタットへ行き、北オーバーバイエルンを統治することとなった。

その後不仲であった彼らは幾度も争いを起こし、結局戦いによってルートヴィヒは兄ルドルフ1世を権力の座から引きずり下ろすことに成功した。結果ルートヴィヒはミュンヘンなども統治するようになり、ルートヴィヒはその後ドイツ王に選ばれた(1314年10月)。中世ドイツでは王のレジデンツのある街が首都と定められていたので、ルートヴィヒがドイツ王に選ばれたことによりミュンヘンがドイツの首都となった。

兄ルドルフは市民に高い税金を掛けていたのでミュンヘン市民には人気がなく、ルートヴィヒがミュンヘンに入城したときミュンヘン市民は喜んで彼を迎えた。その後ルドルフはハプスブルクのウィーン、そしてハイデルベルクへ引っ越しし、ここにプファルツ系ヴィッテルスバッハ家が生まれた(1777年この家系から選帝候カール・テオドールが出てミュンヘンに来る)。ルドルフはその後おそらくイングランドで亡くなった。

ルートヴィヒがドイツ王に選ばれてから、その後の8年間オーストリア・ハプスブルク家のフリードリヒと戦い、1322年、王ルートヴィヒはミュンヘン市民の強力な助けを得て、中世最後の騎士の戦いであったミュールドルフとアンフィングの戦いで敵を敗ることが出来た。その戦いのあとミュンヘンに入城するルートヴィヒの模様は現在イザール門の壁画に残されている。

ライバルを敗ったルートヴィヒは1328年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれたが、彼はローマ教皇と中世で最後の大きな「闘争」をしなければならなかった。彼は異端者として中傷され破門されたが、不当に干渉する教皇から帝国を解放することに努めた。また彼は教皇と不仲にあったフランシスコ修道会(当時ミュンヘンのフランシスコ修道会は現在のバイエルン州立歌劇場の位置にあった)の強力な支持を得ることも出来、それに属するヴィルヘルム・フォン・オッカムやマルジリウス・フォン・パデュアなどが教皇に対し教会会議(公会議)主義の議論を誘い出した。

つまり教会とは国家の中の信者団体であって、信者団体を体現する教会会議は教皇に優越するというものである。(この考えが出てきたことはボニファティウス8世において極盛に達した教皇至上主義の終わりをも意味していた。)教皇は彼に対立する王を皇帝に推したが、ミュンヘンだけでなくバイエルンは皇帝ルートヴィヒに忠実であった。ミュンヘンはその後皇帝の庇護の元、大きく発展する。

当時神聖ローマ帝国では皇帝のいる街が帝国の首都となることが決められていたので、ミュンヘンはドイツの首都から神聖ローマ帝国の首都にもなった。ルートヴィヒがミュンヘンを統治している間(1317-1347、その前の期間1294-1317は兄ルドルフとの共同統治)は帝国内で最も重要で華やかな街となった。その期間にミュンヘンには新しい市壁が築かれ、市内の家々も整備されるのと同時に道幅も広くされ運河などの施設も整えられた。ミュンヘンの街はそれまでの6倍の広さになり、新たに4つの主要門(ノイハウザー門、シュヴァービング門、イザール門、ゼントリンク門)、幾つかの小さな門が建設され、市壁も2重になった。また彼が使用していた紋章、金地に黒の双頭の鷲が描かれたもの、ここからミュンヘンの市の色は黒と金と決められ、それは現在も続いている。

1315年5月4日ルートヴィヒは市場を開放し、ミュンヘンを訪れる商人には通行の自由と安全を保証した。また1332年11月6日皇帝ルートヴィヒはミュンヘンにとって非常に価値ある『塩の権利』を認めた。ミュンヘンでの商業政策上重要なことで、(バイエルンの)ランズフートとアルプスの間を流れるイザール川で塩(商人)の通行が許可されるのはミュンヘンだけとなり、またミュンヘン以外の街からやって来た塩商人が、ミュンヘンを通過する別の商人に塩を販売出来るのは3日以内と決められた。結果この特権によってミュンヘンは非常に優遇され、14、15世紀ミュンヘンは全盛期を迎える。

1347年皇帝ルートヴィヒは現在のフュルステンフェルトブルックの近くで熊狩りの最中に急に亡くなった。彼は破門されていたので、彼の埋葬は秘密裡に行われなければならず、それ故現在も彼が何処に埋葬されているか定かではない。しかし多くの人は彼の「永遠の憩いの場所」はマリア教会にあると認識している(この教会は当時街の最北西部に位置し、この場所には後に聖母教会が建てられた)。現在聖母教会には1620年頃作られた皇帝ルートヴィヒの墓碑がある。

1328年ルートヴィヒ、ローマでの戴冠式

宮廷庭園回廊にある壁画
ルートヴィヒ、ローマでの戴冠式(1328年)

皇帝ルートヴィヒ像

皇帝ルートヴィヒ像

イザール門

イザール門
壁画にルートヴィヒの凱旋の模様が描かれている

皇帝ルートヴィヒの墓碑

聖母教会にある皇帝ルートヴィヒの墓碑
 

紋章

皇帝ルートヴィヒの紋章
菱形の白青模様はバイエルンの色

皇帝ルートヴィヒ記念像

皇帝ルートヴィヒ記念像

 

 

menu
「散歩」のトップに戻る