やまねこの物語

散歩 ヒトラー暗殺未遂事件 1939年

1939年8月ナチス・ドイツはソビエト連邦(当時)と独ソ不可侵条約を締結し、9月ポーランドに侵攻した。これにより英仏が対独宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。

同年11月アドルフ・ヒトラーは演説をするためにミュンヘンにやってきた。それは1923年11月9日ミュンヘン一揆の前夜、ナチス党員に檄を飛ばしたビアハウス「ビュルガーブロイケラー」(現存しない)で、記念の演説をするためだった。つまりミュンヘン一揆記念式典のようなものだった。

演説はヒトラーが緊急にベルリンに戻らなくてはならない状態になったため、予定していた時刻より30分早く21時7分に終了した。21時20分に爆発が起こり、古参党員6名と、お店の女性従業員1人が即死し(最終的に8人が死亡)、63人が負傷を負った(そのうち16人は重傷)。これはヨハン・ゲオルグ・エルザー(1903-1945)というミュンヘンに住む36歳の家具職人(計画実行当時は無職)の単独犯による暗殺計画だった。

エルザーは手先が器用、無口で偏屈、孤独な男と言われ、話せばシュヴァーベン訛り(バイエルンの一方言)が強く、共産主義者で反ナチス思想を持っていた。彼は後の取り調べで「ドイツの戦争を避けるために計画した」と述べたように、自分一人で製作した時限爆破装置で、暗殺計画を実行した。計画実行の日まで彼は毎晩ビュルガーブロイケラーに通い、丹念に準備をした。ヒトラーの演説が行われる一週間、ミュンヘン警察は警備の数を増やし、絶えず監視をすると発表したが、ヒトラーの側近たちは選ばれた信用出来る多数の古参党員がいるから安全だとその要求をはねのけ、ヒトラーもその案に賛成した。

11月の始めエルザーは演説が行われるホールの柱、つまりおそらくヒトラーが演説するであろう場所近くの柱に空洞を掘り、11月6日その中に自作の時限爆破装置を入れ、爆発時刻を8日21時20分にセットして、空洞をビールのケースで隠した。ヒトラーは8日朝ミュンヘンに到着し、私用を済ませた後、20時会場であるビュルガーブロイケラーに到着した。ホールはすでに満員でホール内には色鮮やかな旗が数多く飾られていた。ヒトラーが演壇に上がると拍手の嵐が起こり、演説が始まるまで約10分間待たなければならなかった。

しかしヒトラーは予定より早く演説を切り上げミュンヘン中央駅に向かい特別列車でベルリンに帰った。というのは、彼は対英仏戦争について色々な準備などをしなければならず、ミュンヘンで古参党員とゆっくりしている時間がなかった。しかももし翌日ミュンヘンから空路でベルリンに戻ろうとすると11月のバイエルン特有の朝の霧が発生して飛行機が飛べなくなる可能性があったので、早めに帰るべく演説を切り上げた。ヒトラーの特別列車は21時30分出発予定だったので、それにあわせてホールを後にした。

ヒトラーや彼の側近が会場を後にした8分後、エルザーの仕掛けた爆弾が爆発し、その爆発は演壇やその周辺だけでなく、天井までも吹き飛ばす威力のあるものだった。その爆発についてヒトラーは中央駅に着く前に知らされたが、彼は予定通り電車に乗り出発した。多くのミュンヘン人はその爆発が起こった現場に向かう車のサイレン音から、その騒音を「戦争が終わったに違いない」と解釈し市民は多いに歓喜した。ヒトラーの乗った列車が途中ニュルンベルクに停車したとき、宣伝大臣ゲッベルスが列車に乗り込んできて、ミュンヘンでの爆発についてヒトラーに報告した。ヒトラーは最初冗談だと思っていたが、ミュンヘン地区のガウライターのヴァーグナーからも事実と知らされた。(ナチスは当時、ドイツをいくつもの地区に分割し、それをガウと呼び、その指導者をガウライターと称していた。)

その爆発が起こった頃、爆弾を仕掛けたエルザーはドイツとスイスの国境コンスタンツの国境税関で取り調べを受けていた。というのは彼が共産党関連のものと、爆弾の発火装置、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーの見取り図を所持していたからであった。この時点では税関員はミュンヘンでの出来事について知らされておらず、ただ彼を共産党の使者と疑い勾留した。その後ゲシュタポ(秘密警察)に引き渡された。彼は特別囚人として終戦直前までダッハウ強制収容所で生かされていたが、ドイツ降伏の20日前である1945年4月9日ヒムラーの命令で射殺された。(収容所で彼は爆弾を再度造らされ、本当に彼が単独で計画実行したか確認もされた。)

その後ミュンヘンの新聞などはヒトラーが無事だったことに対し、「ドイツの運命に感謝する」との記事を載せ、大司教カーディナル・ファウルハーバーはヒトラーに祝電を送り、聖母教会でヒトラーの無事を神に感謝するミサを行った。またミュンヘンではヒトラーの護衛も厳しくなり、彼と同じアパート(日本でいうマンション)に住む住民はアパート入り口の鍵を各自で所有できなくなり、また市の爆薬についての管理などが強化された。11月11日ヒトラーは再度ミュンヘンを訪れ彼を暗殺するための爆破で犠牲となったものの葬儀に出席し、午後飛行機でベルリンに戻った。

この暗殺計画は全くの未組織の民間人が単独で計画・実行した点に特異性がある。その後イギリスの陰謀説やバイエルンの君主制復活を望む者の犯行説、ヒトラー神話を作り上げるためゲシュタポがしくんだ計画説など色々な説があるが解明されていない。いずれにしても、この暗殺未遂事件によりヒトラーの奇跡的生還が神話化され、ヒトラーは「神によってドイツを導くために現れた『ドイツの希望』」とされる。

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

爆弾爆発後のビュルガーブロイケラー

ヒトラー暗殺未遂事件の碑

ヒトラー暗殺未遂事件の碑

 

 

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