やまねこの物語

散歩 初めての革命 1397年

1397年から1403年までミュンヘンはかつてないほど不穏な時であった。ある革命がミュンヘンの支配情勢を変えた。それまで街は、役所の官職を独占している約40の名家によって支配されていた。それらはカウフィンガー、インプラー、リグザルツ、ピュトリヒ、ディーナー、シュルダー、シュレンク、ゼントリンクなど名のある家系で、現在それらの名前が付けられた場所、通りが市内にも残っている。また当時のミュンヘンは南ドイツで最も税金の高い街として知られており、名家が支配するミュンヘンは金が支配する街として称されていた。

1397年、手工業者のマイスター(親方)とその職人組合(当時約300人、1383年には1104人の組合員がいた)や日雇い労働者は、それら名家だけの支配に反対し、同時に手工業者たちが市議会に対して影響力を持つことを要求した。その手工業者たちと市議会が争いを起こしたとき、ミュンヘンを統治していた大公ヨハン2世が亡くなり、大公家ヴィッテルスバッハ家内で遺産問題が生じ、階級闘争の問題をややこしくした。つまり市民側に立つ大公シュテファンとその息子大公ルートヴィヒと、市議会側に立つ大公ヨハン2世の息子である大公ヴィルヘルム3世、大公エルンストの兄弟である。大公間の争い(2人の大公対2人の大公)は危うく戦争を起こそうというところまで事態は進んだ。

ちょうどその時ミュンヘン市議会の選挙が行われることになったが、復活祭の次の日曜日であった1398年4月14日、手工業者たちはウルリヒ・ティヒトゥル指導のもと、市庁舎(現在の旧市庁舎)に突入しこれを占領した。つまり大公シュテファンを支持する人達が武力によって政権を握ることに成功した。一般市民は苦労してお金を貯めても、その大部分を税金として納めなければならなかったので、多くの人が手工業者たちの動きに賛同した。

当時の市長イェルク・カツマイヤーは辞職を余儀なくされ、また一部の名家は牢獄に監禁され、財産も没収された。手工業者を中心とした革命は成功した。その後組合による統治が行われていたが、一般市民の間には世紀転換前ということで目に見えない不安があった。ペストに対する不安である。ペストは1349年、1356年、1380年と流行していたので、この時期にまた流行るのでは、という不安が街を襲っていた。

市民がペストの不安を抱いているとき、大公間の争いはさらに続いており、ついには宮中伯ルプレヒトとヴュルテンベルク公エバーハルト伯爵の二人の高貴な人物が仲裁し、大公兄弟、つまりヴィルヘルム3世とエルンストが大公ヨハン2世の遺産を継ぐという提案を出し、ミュンヘン市民も手を差しのべて、それまでの無礼を謝り、平和的に解決がなされた。が、数週間後には再び大公間の争いが起こり、絶えず不穏な時代が続いた。

しかし1402年12月6日、不穏な状況を放っておけないと考えた領主などからなる24人の貴族によって最終的な決定がなされた。つまり大公シュテファンと大公ルートヴィヒは(それまで通り)インゴルシュタット地域を納め、大公ヴィルヘルム3世と大公エルンストは彼らの父ヨハン2世を次ぎ、ミュンヘンを統治する。その結果4人の大公がミュンヘンを統治する時代が終わった(正式には大公ヴィルヘルム3世と大公エルンストが統治となっている)。

そして大公ヴィルヘルム3世、大公エルンストはランズフートの彼らの従兄である大公ハインリヒ16世の助けを得て、多くの兵士(約2000人の騎兵)で街を包囲し、街の郊外を焼き払い市民の存立を脅かした。勇気ある市民約600人がゼントリンク門から攻撃を仕掛けようとしたが街を包囲した兵士に押し戻され、多くのものが負傷した。その状況で街を統治していた手工業者などの組合は、それ以上の抵抗を諦め、1403年5月31日、フライジングで大公側と話し合いを行い、また大公側も手を差しのべて平和的に解決となった。翌日6月1日大公エルンストは辞職した市長カツマイヤーを伴って街に入城し、その後逃げていた名家の人達も街に戻ってきた。

革命を指導していたものは多額の罰金を支払わなければならず、一部のものは街から追放された。そして新たに市議会選挙が行われ、名家の人達は大勝利をおさめ、カツマイヤーも市長の職に返り咲いた。不穏な時期は終わったが革命で力を得た組合は多方面で多くの影響力を持つようになった。そして15世紀中頃、ミュンヘンは商業都市として花開く。

旧市庁舎

旧市庁舎

 

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