やまねこの物語

散歩 水晶の夜 1938年

ミュンヘン会談が行われてから5週間後の11月8日、この日は1923年のミュンヘン一揆記念日に当たり、ナチスの高官はミュンヘンに集められヒトラーはビュルガーブロイケラーで記念演説を行った。翌9日にはミュンヘン旧市庁舎で宣伝相ゲッベルスによる反ユダヤ主義的な演説が行われた。当時のミュンヘンの党指導者たちは第三帝国誕生時からユダヤ人を街から追い出すべく反ユダヤ主義政策を採っており、ゲッベルスの演説に好感を持った。1933年1月から1938年11月の間に3574人のユダヤ人がミュンヘンから別の街に移ったが、同時に別の街から逃げてきた、ほぼ同数のユダヤ人がミュンヘンに住んでいた。

市は街にある幾つかのユダヤ人企業をボイコットなどで圧力をかけ、またユダヤ人の銀行口座閉鎖などを実施したが、1938年には市内にユダヤ人の所有する銀行がまだ12軒も残っていたので、ミュンヘンの党執行部はこれをユダヤ人の挑戦と受け取った。

そしてヒトラーがミュンヘンに滞在中、ゲッベルス指導による組織的ユダヤ人大迫害がドイツ全土で行われた。これは11月7日、パリのドイツ大使館三等書記官エルンスト・フォム・ラートがドイツ在住のポーランド系ユダヤ人ヘルシェル・グリュンシュパンによって撃たれ亡くなった「ラート暗殺」に対する報復として、11月9/10日、ドイツ全土でユダヤ人商店での略奪、シナゴーグ(ユダヤ教会)への放火、ユダヤ人の恣意的虐殺、逮捕が行われた。この行為は商店などのガラスが粉々に破壊されたことから、「割れたガラスの夜」、一般的に「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」と呼ばれる。

これは反ユダヤ主義のゲッベルスが自然発生的デモを組織して、ユダヤ人への暴力行為を指令したもので、9日深夜ゲシュタポ(国家秘密警察)長官ハインリヒ・ミュラーがドイツ全土の警察に「まもなくユダヤ人に対する暴動が起こるが、警察はそれを邪魔してならない」と電報を打つ。これにより歴史的に貴重なシナゴーグなどが焼かれた。

ミュンヘンではガウライター(ナチスは当時、ドイツをいくつもの地区に分割し、それをガウと呼び、その指導者をガウライターと称していた)であるヴァーグナーが突撃隊(SA)を招集し、ユダヤ人商店襲撃、シナゴーグへの放火、ユダヤ人逮捕を命じた。まず始めに市内のユダヤ人商店のガラスが割られ、あちこちで煙が上がり、それが街を覆い尽くした。ミュンヘン警察は被害が拡がらないよう命令を出したが、結果的に46軒のユダヤ人商店が襲撃を受け、店主などは殴り殺された。またシナゴーグ(オヘル・ヤコブ・シナゴーグ)にも放火されたが、消防隊は隣家への飛び火を消火しただけで、シナゴーグを消火することはなかった。

この事件で特にSAの若者が暴徒化し、命令がないにも関わらず多くのものを破壊し、例えば毛皮のコート、時計、タイプライターなどを略奪した。SAが暴れている間、ゲシュタポはユダヤ人一斉手入れを行い、彼らをダッハウ強制収容所に移送した。ミュンヘン市民の多くはユダヤ人に対するそれらの行為にほとんど関心がなかった(示さなかった)。中世ドイツ以降最も激しいユダヤ人弾圧であったこの事件はもちろんミュンヘンだけでなく、ドイツ全土で行われたが、特にベルリンとニュルンベルクで激しく、それに比べるとミュンヘンでは物質的損害はそれほど多くなかった。

ミュンヘンの物質的被害は少なかったが、ユダヤ人は事件後の街を元通りにしたり、通りの清掃のための費用を全て払わなければならず、また警察、消防などの出動費も支払わなければならなかった。多くのユダヤ人商店は店舗を空っぽの状態にし、その後お店の再開をすることは出来なくなっていた。焼け残ったシナゴーグは取り壊され、そのまま空き地となった(現在も空き地)。この事件の後、ドイツ国内に残っていた多くのユダヤ人は一斉に国外退去した。

この野蛮な行動に対し、国家保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒは国家警察に「ユダヤ人迫害はドイツ人の生命財産を危険にさらさない範囲内でのみ許される」と声明を出した。11日ハイドリヒはプロイセン首相ゲーリングに「水晶の夜」の破壊状況を報告。最終的にドイツ全土で171の教会が放火され、76の教会が完全に破壊された。また7500軒のユダヤ商店が襲撃を受け、ユダヤ人100人が殺され、2万人が逮捕された。

翌12日ゲーリングは「水晶の夜」についての会議を空軍省で開く。これはゲーリングが主催し、経済相フンク、法相ギュルトナー、蔵相クローズィク、宣伝相ゲッベルス、保険業界代表ヒルガルト、保安警察長官ハイドリヒ、治安警察長官ダリューゲ、外務省代表ヴェルマンなどが出席した。この会議でゲーリングはゲッベルスの行為を「物質的破壊は国家的損失な上、官憲の統制が不可能になる恐れがあるため中止するべき」と批判する。これによりユダヤ人迫害には計算された組織的な方策が採られるべきとの考えが生まれた。つまり街頭行動によるユダヤ人政策は影を潜め、国外追放という形でユダヤ人政策の体系化が図られた。この事件で実行責任者であったゲッベルスは以後ユダヤ人政策からの撤退を余儀なくされ、かわってゲーリングがユダヤ人問題の最高責任者に任命され、その具体的実行者としてヒムラーやハイドリヒが登場してくる。

オヘル・ヤコブ・シナゴーグ

「水晶の夜」後のオヘル・ヤコブ・シナゴーグ

「水晶の夜」後のお店

「水晶の夜」後のお店

 

 

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