やまねこの物語

散歩 ミュンヘン一揆 1923年

ドイツでは第一次世界大戦の敗北を機に革命が起こり、それまでの王政が廃止され共和制となった。そして国民議会は当時最も民主的といわれたヴァイマール憲法を制定し、いわゆるヴァイマール共和国が誕生した。しかしこの時期は政治的にも経済的にもきわめて困難な時代で、特に旧連合軍(特にフランス)の厳しい賠償取り立て政策によりドイツ経済は不安定となり、愛国者(右翼)の一揆、共和国大臣の暗殺、ソビエトにならった共産党の蜂起などが相次ぎ、ドイツ国内は混乱した。1923年、賠償金を払わない(払えない)ドイツに対して怒ったフランス・ベルギー両国軍隊がドイツ工業の中心、ルール工業地帯を占領した。これによってインフレが進み、マルクの価値は下落し、戦前(1900年代初頭)1マルクのものが1923年には、25億2千万マルクとなった。

政治的に不安定になったのは、ドイツ国民が民主的なものに慣れていなかったこともあるが、地域的にも問題があった。バイエルンとプロイセンである。バイエルン(首都ミュンヘン)にはベルリンの(ユダヤ人も参加している)政府を憎み、バイエルン王国から続く分邦主義的伝統に根ざした反ベルリン感情があった。そのバイエルンではドイツ・ヴァイマール共和国中央政府与党の社会民主党は排除され、その結果中央政府の国家的行動はいつもバイエルン政府によって妨げられた。結果、バイエルンは共和国中央政府を打倒しようとする勢力の中心地となる。(一方、中央政府は混乱を避け首都機能をドレスデンやシュトゥットガルトに移す。)

ドイツ国内では旧連合国に対して強い態度を示さない共和国政府を避難する人が多く、経済的混乱を招いた。ミュンヘンでも他のドイツ国内同様インフレが進み、1923年10月1日にはビール一杯が 2100万マルクとなる。ビールの値段の高さにバイエルン人が怒ったわけではないが(←これも理由の一つであろう)、内乱の危険を危惧しバイエルン州政府はベルリンの中央政府に連絡せず非常事態宣言を発し、前バイエルン州首相カールにバイエルン邦総監として特別な地位を与えた。これは事実上バイエルンの独裁的地位であり、中央政府はこのバイエルンの行動を右翼革命ととらえ、大統領緊急令を発してドイツ全土に戒厳令を布告した。またこれに関連してバイエルン駐在のドイツ国防軍は中央政府から独立し、バイエルン国防軍となる。またバイエルンは軍隊だけでなく司法、財政、税金、交通、警察などに関して中央政府から独立する。

というわけでヴァイマール共和国から半ば独立したかたちのバイエルンではバイエルンの軍隊でベルリンに進軍して国民的独裁政権の樹立を考えはじめる。バイエルン邦総監カールはバイエルン軍ロッソウ将軍、警察長官ザイサーとともに「三頭政治家」と呼ばれ、他の愛国主義軍事団体などとの連携を画策する。しかしこの右翼の会合から同じ方向性を持っているにもかかわらず国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は排除されていた。というのはそのナチスのヒトラーと、バイエルン独裁者のカール総監では同じ「共和国政府打倒」という目標を持っているといっても、ヒトラーの方は第一次世界大戦の英雄ルーデンドルフ将軍のもとにドイツ全土に対する独裁政権を樹立することを考え、カール総監はバイエルンを独立させ、ヴィッテルスバッハ家の王政を復活させるために、中央政府打倒を目指していた。

そして1923年11月8日ある事件が起こった。11月8日という日は1918年第一次世界大戦後バイエルン・ミュンヘンでクルト・アイスナーによってミュンヘン革命が起こりバイエルン共和国が宣言された日だ。(この共和国は後にヴァイマール共和国の一部となる。)その11月8日、バイエルン邦総監カール、バイエルン国防軍ロッソウ将軍、ザイサー警察長官、バイエルン首相クニリング、その他大臣など愛国者がビュルガーブロイケラーというビヤホールで集会を行う。(このビヤホールは現存していない。)その集会に対してヒトラーは焦る。というのはカールなど愛国者が完全な「バイエルン独立」を宣言してしまえば、ヒトラーが目指す愛国者によるドイツ全土の独裁政権樹立という目標が達成できなくなる。勝手に独立してもらっては困るのだ。ヒトラーとしては同じ中央政府打倒を唱えるカール総監などとともに中央政府と戦う必要がある。それゆえヒトラーはその会場を占領して三党政治家を味方に引き入れようと、武装した突撃隊を率いてビュルガーブロイケラーに乗り込んだ。

午後8時30分、いきなりヒトラーは愛国者で満場の会場を占領し、(ベルリンの中央政府ではなく)バイエルン主導の「国民政府樹立」を宣言する。これがいわゆる「ミュンヘン一揆」である。(「ビヤホール一揆」「ヒトラー一揆」とも言う。)ヒトラーはバイエルンとヴァイマール共和国両政府の廃止を宣言し、三頭政治家に協力を要請する。最初、三頭政治家は拒絶するが将軍ルーデンドルフの説得で三人はヒトラー協力に同意した。ヒトラーがその席を外したあと、ルーデンドルフ将軍は疲れた三人を帰宅させる。

バイエルン国防軍内でヒトラーと共にベルリン進軍するか議論されたが、(バイエルンの)国防軍と(中央政府の)国防軍が撃ち合う事態の回避のためにロッソウ将軍は反ヒトラーを決意する。午前0時過ぎ、三頭政治家のカール、ザイサーもロッソウ同様反ヒトラーを決意し、午前2時50分カールはラジオ放送でヒトラー一揆の否認声明を発表。同時にカール総監の下、バイエルン国防軍、警察、官僚がヒトラー一揆の鎮圧に向かう。しかしカールの声明発表と同じくしてミュンヘン市内に速報が出る。「ヒトラーのもと国民的政府の樹立」と。

ヒトラーとルーデンドルフはミュンヘン市内を行進することによって市民を味方に付けようと考え、午前11時30分、武装した2000人(一説には3000人)の突撃隊を率いてビュルガーブロイケラーを出発。ヒトラー側は不慮の事態に備えてバイエルン政府の大臣や高官を人質としていたため、ヒトラー一揆を阻止しようとする警官隊も発砲は出来なかった。ヒトラー達は陸軍省を行進の目標としていた。というのは陸軍省はナチスの他の幹部によって占領されていたが、その建物が国防軍に包囲されていたからだ。しかしその途中、オデオン広場では武装した警官隊がその行進を待ち受けており、ヒトラー側と警官隊でいきなり銃撃戦が始まった。その銃撃戦で警官隊4人、ヒトラー側15人(他説では13人、14人、17人)が犠牲になった。

ヒトラー側は四散しナチス関係者は逮捕され、逃げていたヒトラーも翌々日逮捕された。カール総監は戒厳令を発し、ナチスの活動禁止、財産没収を発表した。ヒトラー一揆を鎮圧に向かった警察や国防軍、特に後者はヴァイマール共和国の決定的な勢力に成長する。1924年2月26日からミュンヘン法廷が開かれ、クーデター計画の中心としてヒトラーは4月1日禁錮5年を言い渡される。(ルーデンドルフ将軍は無罪)ヒトラーは反省し、武力による政権奪取ではなく民主主義の枠の中で合法的に活動するよう戦術転換し、監獄内でヒトラーの著書『わが闘争』を執筆。ちなみにヒトラーはその裁判で、弱体な共和国政府、国家機関をけなし、愛国主義の熱意で民衆の賛同を勝ち取った。(全ドイツの新聞で一面に掲載されヒトラーの名前は全国的になった。ミュンヘン一揆のニュースは海外にも報道されたが、New York Times はこの事件でナチスは終わったと掲載した。)同時に共和国政府打倒を考えていたカールにはヒトラー一揆加担疑惑が生じ、以後彼の政治生命も終わりを告げた。

 

ミキシミリアン議事堂

バイエルン州政府の入るマキシミリアン議事堂

オデオン広場

オデオン広場

ミュンヘン一揆記念碑

オデオン広場にあるミュンヘン一揆記念碑

ミュンヘン一揆モニュメント跡

将軍堂に残るミュンヘン一揆モニュメント跡

栄誉堂

ミュンヘン一揆の犠牲者が祀られていた栄誉堂

旧陸軍省の建物

旧陸軍省の建物

旧陸軍省の建物前からオデオン広場を望む

旧陸軍省の建物前からオデオン広場を望む 

犠牲者の移送

ミュンヘン一揆の犠牲者を栄誉堂に移すパレード
1935年

栄誉堂

1935年以降の栄誉堂
 

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