やまねこの物語

散歩 ヴィッテルスバッハ家登場 1180年

ミュンヘン市はヴェルフェン家ハインリヒ獅子公によって1158年創設され、その彼の統治の下市場は発展した。しかし彼は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世に従順でなかったことから、1180年その地位を追放されるに至った(1195年死亡)。つまり彼はそれまで統治していたバイエルンとザクセンの大公ではなくなった。それと同時に1180年9月ヴィッテルスバッハ家のオットー1世が大公になった(大公オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ)。獅子公には13才になる孫娘アグネスがおり、その婚約者としてラインプファルツのオットー1世(当時8才)が選ばれたからだ。そしてこのヴィッテルスバッハ家は1180年から1918年までの長い間、ミュンヘンを統治することになる。

しかしミュンヘンを含むバイエルンを統治するヴィッテルスバッハ家が登場したとき、全てが順調に行ったというわけではなかった。というのはミュンヘン市民は大公など貴族政治に関心が無く、自分たちの手で街を統治しようとしていた。それゆえ大公オットー1世はミュンヘンではなく、ニーダーバイエルン地域のケルハイムから統治を行い、その後ランズフートに移った。そして1180年7月15日、レーゲンスブルクの帝国議会は1158年6月14日のフライジング司教とハインリヒ獅子公との争いを新たに論じ、最終的に皇帝によってフライジング司教の立場が認められた。その結果、ハインリヒ獅子公によって築かれたミュンヘンの町と橋は破壊されることになり、それ以前のようにフライジングに橋が再建されることに決められた。

ところでハインリヒ獅子公によって街と橋が築かれたとき、その条件としてハインリヒ獅子公は税関で得た収入の3分の1をフライジング司教に支払わなければならないというものがあり、彼はその条件通り、支払い続けていた。しかし新たな採決によってミュンヘンの破壊が決められたとき、その不公平さに対して文句を言う者は一人もいなかった。というのは市民は獅子公が皇帝の寵愛を失っていたというのを知っていたからである。これは1176年、皇帝がイタリアで出兵する際、獅子公に武器の援助を求めたが、獅子公はこれを拒否したのと同時に自らが王になることを要求したというものである。

しかしミュンヘンには破壊命令が出されたものの、その市場は破壊出来ないほど大きく、また強い権力を持っていたので、街を破壊することは出来なかった。当時バイエルンの通貨はレーゲンスブルクのもの以外にミュンヘンのものも使われており、ミュンヘンの発展を止めることは既に出来なくなっていた。

ところでこのハインリヒ獅子公追放に関して、歴史では未だ様々な研究がなされている。これらのことは本当に起こったのか?歴史家が噂的に書いたのか、また例えばミュンヘンは本当に破壊されなかったのか、それとも破壊され直ぐに再建されたのかなど、謎が多く今現在もそれらについて様々な角度から研究がなされている。

オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ像

大公オットー・フォン・ヴィッテルスバッハ像

ハインリヒ獅子公像

ハインリヒ獅子公像

 

 

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