やまねこの物語

散歩 ミュンヘン、大公領首都になる 1255年

ミュンヘン市はヴェルフェン家ハインリヒ獅子公によって1158年創設され、交通の要所であったことから市場は大きく発展した。1180年に獅子公追放後、バイエルンはヴィッテルスバッハ家統治となったが、彼らはまずニーダーバイエルン地域のケルハイムで、後にランズフートでバイエルンを統治した。また経済的に発展していたミュンヘンは、1214年文書で初めて「市」とされ(それ以前は村)、1239年には初めて市の印象が定められた。またミュンヘンは経済的に非常に栄え、当時の税収も他の街と比べて多く、当時のミュンヘンはバイエルン地域で最も栄えた街となった。(1214年当時ミュンヘンは現在のように Muenchen ではなく、Munichen、Muenichen、Munchen、Muoenechen と記載されている。)

そしてヴィッテルスバッハ家が統治し始めてから4世代目のとき、領土的な遺産相続問題が起こり、1255年バイエルンが初めて分割された。その結果大公ハインリヒはニーダーバイエルン地域を、ミュンヘンを含むオーバーバイエルン地域並びにラインプファルツ地域は大公ルートヴィヒ2世(後に厳格公と呼ばれる)の統治下となった。当時大公ルートヴィヒ2世はハイデルベルクで生活しており、新たに統治することとなったオーバーバイエルン地域から、居城(首都)を置く街を選ぶ旅に出て、ミュンヘンをその地に選んだ。(しかし大公ルートヴィヒ2世(ヴィッテルスバッハ家)がミュンヘンを何故選んだか、どのようにして、何時ミュンヘンにやって来たかなどは文書に残っていない。おそらく先に統治していたハインリヒ獅子公の遺産が残っていたからとされる。)

ところで大公ルートヴィヒ2世は後に厳格公と呼ばれるが、これは嫉妬から彼の夫人であったマリア・フォン・ブラバントを殺害したところに由来がある。その後彼は罪の気持ちからフュルステンフェルトに修道院を建設した。

そして大公ルートヴィヒ2世はミュンヘンに大公の居城を新たに建設(現在のアルターホーフ)し、そこからオーバーバイエルン地域を統治した。同時に彼はミュンヘン郊外のグリュンヴァルト、ヴォルフラーツハウゼンやドナウ川沿いのノイベルク、ドナウヴェルトにも居城を建て、そこからも統治をしたが、それらの中心にミュンヘンを置いたので、ミュンヘンは社会的、経済的、文化的に発展した街となった。そして1271年新たな市壁を建設する計画を建てた(1315年完成)。

ところで当時、買い物をする際に十分なお金を持っていない者は、市壁の前に連れて行かれた。当時、現在のタル地区(旧市庁舎からイザール門方面)には門があり、そこは市と外側(郊外)を結ぶ門であったにもかかわらず、その門の前は外からの人を受け入れる場所と言うより、お金を持っていなくて逃げた人を捕まえる場所であった。そして捕まえられた人はその地の旅館などで働かされた。それ故、現在もこの通りには旅館(ホテル)やレストランが多い。

しかしここに建っている旅館などは当時はどちらかといえば安宿が多かった。というのは隣接した所には手工業者が多く生活し、彼らは常に火災に対する危険があったり、また作業から異臭がすることもあったからである。またここに手工業者の作業場が置かれたのは次の理由がある。当時の人はミュンヘンにおいて風は西から東に吹くということに気付き、それ故手工業者たちの作業場、工場を街の東側に置いたということである。現在Ledererstr.という通りがあるが(直訳すると鞣し職人通り)、ここは当時ミュンヘン市の東端であったからである。

アルターホーフ

アルターホーフ

ルートヴィヒ厳格公像

ルートヴィヒ厳格公像

 

 

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