やまねこの物語

散歩 地下鉄開通 1971年

1971年10月19日、ミュンヘン市の中心マリエン広場(マリエンプラッツ)から1600人の賓客を乗せてU-Bahn (ウーバーン、地下鉄)が走り出した。その日ゲーテ広場(ゲーテプラッツ)から12キロ離れた(片道17分)キーフェルンガルテンの間の地下鉄が開通した。これはその翌年に第20回夏季オリンピック大会がミュンヘンで開催されるのにあわせて整備された交通網(近郊線<S-Bahn>、地下鉄<U-Bahn>)の一つである。

第二次世界大戦後、ミュンヘン市内には路面電車が整備されていたが、車の渋滞が多く、交通難は年を追うほどひどくなっていた。そこで地下を利用するという考えが出たが、それは新しい考えではなかった。というのはバイエルン王国時代1905年にバイエルン議会の議員によって、交通麻痺を緩和する案として地下鉄建設が要求された。当時は財政や技術的な問題で実現できなかったが、1938年第三帝国下、ヒトラーの命令によってミュンヘンの地下鉄建設が始められた(5月22日)。これは長さ590メートル掘ったところで、戦争が拡大しその後は防空壕として利用された。

戦後、ミュンヘンはドイツの中で最も成長率の高い街となり、1964年遂に地下鉄工事が始められた。1966年にオリンピックがミュンヘンで開催されることに決まったのも、その工事を進める一つの要因となった。しかし地下での工事は、事故や騒ぎなどがあり、そう簡単には進められなかった。1965年8月11日、ディートリンデン通り地下作業場で事故があり2人の作業員が犠牲となった。1969年にはマリエン広場地下で火災が起こり、3人が犠牲となった。また同年、ゲーテ広場では、先の大戦のイギリス軍による爆撃の際の不発弾が見つかり、周辺住民を避難させなければならなかった。またそれら以外にも歴史的に価値ある発見があり工事の進行を妨げた。例えばゼントリング門広場地下からは、14/15世紀の避難路が発見されたりもした。

地下鉄が開通してから、それまで路面電車や車が走っていたところを歩行者天国にするという大規模な計画がなされ、1972年7月30日、ミュンヘン初の歩行者天国区域がマリエン広場周辺に設けられた。「車」から「人」への明け渡しは当時の市長ハンス=ヨヘン・フォーゲルの最後の職務として行われた。現在、旧市街地の多くの部分が歩行者天国となっている。

今現在、ミュンヘンの地下鉄(8本の路線、延べ85キロメートル、路線距離137.6キロメートル、駅数75、車両台数254台<2000年の状況>)は市民にとっても旅行者にとっても欠かせないものとなり、今もまだその拡張工事がなされている。2002年現在でも幾つかの路線では拡張工事が始められ、また別の路線では拡張計画がなされている。

地下鉄建設の模様

1938年地下鉄建設の模様
(市立博物館の写真から)

地下鉄

2002年から登場した地下鉄新型車両

 

 

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