やまねこの物語

散歩 ウィーン包囲とミュンヘン 1683年

16世紀オスマン=トルコ帝国は全盛期を迎え、1529年にはオーストリアの首都ウィーンまでその兵を進めた(第一次ウィーン包囲)。また神聖ローマ帝国とハンガリーに圧迫を加えるため、フランスのフランソワ1世の提唱でフランス=トルコ同盟(1535年)を結んだ。結果オスマン=トルコ帝国の領土は、陸上ではオーストリアとの国境からアラビア南端に達し、海上ではその海軍力を持って全地中海の海上権を手にした。こうしてトルコは海陸に渡った東西交通の要路を一手に握り、中継貿易の利益の独占によって世界屈指の富強国となった。その後17世紀もトルコはヨーロッパに対して攻勢に出ており、1683年再度ウィーンに兵を送った(第二次ウィーン包囲)。

そのころバイエルンでは、1679年5月26日に選帝候フェルディナント・マリアが43才で亡くなり、当時17才の息子マックス・エマヌエル(1662-1726)があとを継いだ。そしてバイエルンは政治的にそれまでのフランスよりからウィーンのハプスブルクよりの政策を採った。選帝候マックス・エマヌエルの最初の大きな関心は、ヨーロッパに攻勢をかけるオスマン=トルコ帝国に対して軍備を整えることで、そのため彼はバイエルンに特別税を導入した。1682年彼はミュンヘンとフライマンとの間の荒野でバイエルン軍の観閲式を行い、翌年5月11.300人の兵を引き連れオーストリアに向かった。オーストリアの首都ウィーンはカラ・ムスタファ率いる20万のトルコ軍に包囲されていた(第二次ウィーン包囲)。

ウィーンの危機に対して真っ先に行動に出たのがマックス・エマヌエルで、その後皇帝軍とポーランド、ザクセンとの協力によって、トルコ人とマジャール人からなるトルコ軍を撃破し、ウィーンをトルコ軍の攻撃から解放した。当時の勝利の歌はマックス・エマヌエルを賞賛している。そして彼は1685年4月12日皇帝レオポルト1世の娘であるマリア・アントニアとウィーンで結婚式を挙げた。それを祝して1684-88年エンリコ・ズッカーリによってミュンヘン郊外にルストハイム城が建設された。また選帝候とバイエルン軍は5年間、トルコと戦いベオグラード征服にも成功した(1688年)。オスマン=トルコ帝国にとってこのウィーン包囲の失敗は、トルコがヨーロッパに対して攻勢から守勢に変わる大きな転機となった。

1688年勝利者としてマックス・エマヌエルはミュンヘンに帰ってきたが、この戦争で最終的に30.000人のバイエルン人が犠牲となり、15.000.000グルデンという莫大な金額を工面しなければならなかった。また彼は1683年から1690年の間、多くのトルコ人を捕虜とし、その一部をミュンヘンに送り込んだ。彼らトルコ人はミュンヘンのニンフェンブルク城運河建設、ルストハイム城建設のための労働者として、また召使いとして送り込まれた。当時ミュンヘンでは貴族や市民の間でトルコ人を召使いとするのが流行し、同時に市民は通訳の助けを得てトルコ人にキリスト教を布教することに従事した。1699年オーストリアとトルコはカルロヴィッツ条約を結び、捕らえられていた多くのトルコ人捕虜は祖国に帰ることとなったが、ミュンヘンには彼らの自由意志で街に残った者がいた。1700年には36人のトルコ人が確認されている。

ところで当時、レジデンツからシュライスハイムまで運河を建設する予定があったが、運河建設労働者としてのトルコ人は既に帰国して一人もいなくなっていた。地理的にも距離があり難しい計画であって結局完成されなかったが、人々の間では、その道(運河予定地)は水が涸れる道「トルコ人の墓」と称され、その後この通りはトュルケンシュトラーセ(トルコ人通り)という名になった。またその通りに平行してクアフュルシュテンシュトラーセ(選帝候通り)、ベルグラードシュトラーセ(ベオグラード通り)があるが、これらの名は前者が選帝候マックス・エマヌエルに、後者はマックス・エマヌエルが1688年ベオグラードを獲得したことに因んで付けられた。それらの通り名は現在も使われている。

1688年ベオグラード征服

宮廷庭園回廊にある壁画
マックス・エマヌエルによるベオグラード征服(1688年)

ルストハイム城

ルストハイム城
 

 

 

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