やまねこの物語

散歩 トラム開通 1876年

19世紀半ばにミュンヘンの人口は10万人を超え、1860年代には13万人に達した。当時貸し馬車業を営んでいたミヒャエル・ツェヒマイスターはミュンヘン市内に馬車交通の計画を建て1861年6月16日、中央駅からマリエン広場を通り、マリアヒルフ広場までを行き来する馬車路線の試運転を始めた。それは成功を収め彼は新たな路線としてゼントリンク門広場とミュンヘン大学前を往復する路線、中央駅からマクシミリアン通りを通り、イザール河畔まで伸びる路線の営業を始めた。しかしそれらは多くの乗客を乗せることが出来ないという問題があった。

それを解決したのがあるベルギー人だった。技術士であった Eduard Otlet は馬に客車を引かせる馬車を考え、1876年10月21日午前10時営業を始め、ここにトラム(現在では路面電車の意味で使う。当時は「電車」ではなく馬車)が開通した。その初日は大成功を納め5092人の乗客、568マルクの収入を得ることに成功した。路線はシュティグルマイヤー広場からプロメナーデ広場の路線とカール広場からニンフェンブルク通りまでの二つの路線が開通した。しかし彼は48頭の馬に餌を与える必要があり、8台の馬車の維持費も決して安いものではなかった。またプロの運転手がいたわけでもなかったので、状況的にはツェヒマイスターが馬車業を営んでいるときとそう変わらなかった。

そこで彼は1883年、ミュンヘントラム株式会社を設立し、その年の夏にはシュティグルマイヤー広場からニンフェンブルク城まで最高時速8キロの蒸気トラムを走らせることに成功し、1884年には約800台の客車を所有するに至った。しかし1899年蒸気トラムとプリンツレゲント・ルイトポルトを乗せた馬車が衝突事故を起こし、電気によるブレーキの導入が早急な課題となった。1882年世界初の電線がミュンヘンに引かれ、1888年には電気の街灯が立てられていたので、それは難しい問題ではなかった。事故の翌年1900年には電気トラムが走るようになり、その路線距離も93キロとなった。しかし馬から電気への切り替えは予想されていた金額400万マルクでは足りず、最終的に800万マルクの費用がかかることとなった。

その電気トラムが走るようになった1900年、人口は50万人近くなり初の交通規制も行われるようになった。というのは1899年既に25台の自家用車がミュンヘン市内を走るようになっていた。1907年にはバスが走るようになり、1910年には483台のオートバイ、1303台の車が登録され、市内を走る際、最高速度も10キロから20キロに上げられた。車などの数も増えたが同時にトラムの本数も増え、1911年にはトラムの利用者も1億1500万人を突破した。しかし当時は時刻表通りに運行できず、また切符代も常に値上がりしていた。第二次世界大戦後、街の交通機関としてトラムはその路線をかなり延長したが、1972年の夏季オリンピック・ミュンヘン大会の際に地下鉄や近郊線が整備され、その後トラムの路線数も徐々に減っている。

トラム

1876-95年まで使用されていた馬車によるトラムの客車
青と白はバイエルンを表している
中央にミュンヘン市の紋章

トラム

同左
中央にバイエルンの紋章
 

トラム

同上
前後同じ形

トラム

同左
下から

トラム

街中で一番よく見る従来のトラム

トラム

2000年に導入された新型トラム

カロリーネン広場

1885年カロリーネン広場 

トラム

1898年トラム

蒸気トラム

1890年頃の蒸気トラム

トラム

1900年電気トラム

 

 

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