やまねこの物語

散歩 ナポレオン踊る 1806年

コルシカ島に生まれたナポレオンはフランスの軍人として革命時代に功を立て、1804年5月フランス人民の皇帝として帝位に就き、ナポレオン1世と称した。ヨーロッパ支配を進めるナポレオンに対し周辺諸国は同盟し、1805年にはオーストリア・ロシア・スウェーデンなどにより第3回対仏大同盟が結成された。この動きに対しナポレオンは、1805年9月28日バイエルンの選帝候マックス・ヨーゼフ4世とボーゲンハウゼンで防衛条約を結び(ボーゲンハウゼン条約)、これによりバイエルンはフランスのパートナー、同盟国となった。結果バイエルンにフランス軍が駐留することとなる。

ヨーロッパは戦乱の舞台となり、ナポレオンはまずオーストリア軍を破ってウィーンを占領。10月17日ウルムでオーストリア将軍マックが降伏し、24日ナポレオンは華やかにミュンヘンに入城した。しかし彼の滞在は僅か数日でその後彼はまた戦地に戻り、12月2日にはアウステルリッツの三帝会戦(ナポレオン、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリア皇帝フランツ1世が直接戦場にまみえた)でオーストリア・ロシア軍を撃破した。

その後ナポレオンはミュンヘンに戻ってきたが、それは彼の継息子であるウジェーヌ・ボーアルネと選帝候マックス・ヨーゼフ4世の娘アウグスタ・アマリアの結婚を選帝候に申し込むためであった。この結婚はフランスとバイエルンの同盟関係を強化する目的で政治的なものであったが、その際ウジェーヌはアウグスタに「もしこの自分(ウジェーヌ)を嫌いならこの縁談を断っても良い」と言い、「その際の全ての責任は全て自分が取る」とも言った。しかし彼女はこの縁談を自らの意志で承諾した。

そして結婚が決まった後日1806年1月15日にミュンヘン・レジデンツのヘルクレスザール(ヘルクレスホール)で舞踏会が催されることとなった。フランス軍の元帥や将軍たちは地位を象徴する、短パン、白絹のソックス、細長い靴という派手な衣装に身を包んで会場に現れ、ナポレオンも皇帝が身にまとう深紅のマントに身を包んで踊りの輪に加わった。しかし彼はステップを間違えたりして上手く踊ることが出来ず、踊りで英雄になることはなかった。彼の踊りはカトリック教会参事会委員がやじるほどのものであり、それを聞いた外交官は慌ててその場を逃げ出したという話が残っている。

ところでバイエルンはフランスと同盟したことにより先の戦いで勝者となった。ナポレオンはオーストリアとプレスブルク条約を結び、北イタリアからオーストリア勢力を一掃しヴェネツィアを割譲させた(オーストリアは自国の領土の8分の1を失う)だけでなく、バイエルンの王国への昇格を認めさせた(選帝候マックス・ヨーゼフ4世が初代王マックス・ヨーゼフ1世となり、1806年1月1日に公布)。こうして先の戦いで第3回対仏大同盟の一角が崩れると同時にナポレオン大帝国の形成が始まった。1806年にはオーストリア、プロイセンと対抗するために西南ドイツとライン川右岸にライン同盟が形成され(バイエルン王国など4王国、5大公国、11公国、16候国からなり、フランス皇帝を保護者とした)、この結果962年以来存続していた神聖ローマ帝国は解体した。

ヘルクレスザール入り口方面

ヘルクレスザール入り口方面

 

 

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