やまねこの物語

散歩 ピナコテークの誕生 1836年

世界六大美術館の一つとして知られるアルテ・ピナコテークの建設にはバイエルンの王家ヴィッテルスバッハ家が大きな役割を果たした。この美術館の基礎は16世紀にさかのぼる。当時の大公ヴィルヘルム4世(1508-1550)が絵画収集したのに始まり、それを整理したのに帰する。1780年選帝候カール・テオドールは宮廷庭園にギャラリーを建設し、それまでにヴィッテルスバッハ家が収集した絵画を展示するようになった。それらの絵画はシュライスハイム城から533枚、レジデンツから130枚、ニンフェンブルク城から64枚、また1798年にはマンハイムから、1806年にはデュッセルドルフからも集められ、宮廷庭園ギャラリーにある7つの大きな展示室を中心に展示された。

ところで1790年4月18日、このギャラリーの総監督に当時31才のマクシミリアン・ヨハン・ゲオルグ・ディリスが任命された。彼はバイエルン・インゴルシュタット大学で哲学と神学を学び、1872年司祭となったが、ギムナジウム時代から絵画に関する授業も受けていた影響からか教会の道から離れ芸術の道に進むことを決心した人物である。1786年、彼は宮廷専属の画家(の先生)となり、様々な貴族との親交が出来た。1788年には他の地域の芸術に触れる初めての旅に出る機会を得てライン地方、スイスを回り、その中でもフランクフルト、マンハイム、マインツでの絵画収集の素晴らしさに心動かされて芸術史を学ぶ決心をした。そして彼は1790年選帝候にギャラリーの総監督に任命される。

1807年から彼は王子ルートヴィヒと頻繁に手紙のやりとりをするようになり、これがピナコテークの具体的な基礎作り作業となった。王子は絵画を購入するため彼をイタリアに派遣したり、また王子の旅行にも同行させた。1817年の秋、王子はシュペサルト伯爵という名前で旅をした(同行者はカール・フォン・ザインスハイム伯爵や医者)。王子はこの旅のあと、ギャラリーについて具体的に考え始めた。

まず始めに彼は購入した絵画を宮廷庭園ギャラリーに押し込めなければならなかった。彼は『あらゆる芸術作品は万人の目に触れなければならない』という意識を持っていたが、宮廷庭園ギャラリーは手狭になってきたため宮廷庭園ギャラリーの拡張が考えられた。しかしここに予期せぬ問題が浮かび上がった。というのは、新しく拡張する建物が宮廷庭園の西側に位置し、太陽光の問題があった。絵画を展示するためには北側が最も良いとされ、その結果1823年6月12日バイエルン王マクシミリアン1世は新たなギャラリー建設の許可を与えた。

新しいギャラリー建設の許可が下りたが、それを何処に建設するか問題となった。最初に提案されたのはトゥルケン通りであったが、これは芸術協会から拒否された。というのは当時近くにビアガーデンがあり、それは芸術に対して美しくないという理由であった。建築家クレンツェは新たに3つの提案をした。一つは現在、裁判所のある場所、そして現在のケーニヒ広場西側、最後に現在アルテ・ピナコテークの建っている場所である。そして最終的に現在の場所が選ばれたが、バイエルン王マクシミリアン1世はその定礎式を自らの手で行うことが出来なかった。

定礎式は王が亡くなった翌年1826年4月6日、バイエルン王ルートヴィヒ1世の手で行われた。定礎式の日はラファエロ(1483-1520)の誕生日が選ばれた。そしてその10年後の1836年10月16日ピナコテークは開館し、1838年には当時78才であったディリスがこの王立ギャラリーの最初の目録を編集する作業に当たった。

その後アルテ・ピナコテークは第二次世界大戦の空襲で被害を受けた。戦後、建物再建の際、かつてバレアー通りにあった正面入り口は、現在のように北側に新たに建設された。また建物は意識して元通りには再建されなかったが、これは建物全体を戦争に対する警告ための記念碑として記録するためである。

アルテ・ピナコテーク

アルテ・ピナコテーク
 

アルテ・ピナコテーク

第二次世界大戦後のアルテ・ピナコテーク
(写真は市立博物館に展示されてあるもの)

 

 

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