やまねこの物語

散歩 第一次世界大戦とミュンヘン

1895年頃からバイエルンにおいて商業が発展し、1910-12年には最盛期を迎えたがプリンツレゲントの死と同じくしてそれにも陰りが見え始めた。特に失業率が増加し1912-13年の調査ではドイツの中で失業率が2番目に高い街となった。1914年1月14日には15.000人の失業者が市庁舎前でデモを行った。特に失業率が高かったのは左官業であった。1900年にはミュンヘンに6349の新しい住居(Wohnung)が建設されたが、1912年にはその数も5000強となり、1913年は3500、1914年には1629とその数も減少する一方であった(戦後1950年には9859、1960年には16360軒建てられた)。

ところでドイツ帝国は長い間、二つの前線に対する戦争を意識していた。1914年6月28日サラエヴォ事件は市民の大部分にうちに熱狂的愛国心を生み出させ、また芸術家や学者の間にもそれは波及し、彼らは愛国的な賛歌を歌った。市内ではセルビアの使節団が滞在しているところに投石があったり、セルビア人がミュンヘンの水道に毒を流しているという噂が拡がった。7月25日、ミュンヘンのカール広場側にあるカフェの主人は度を過ぎた熱狂的な愛国心を和らげるために、カフェで皆平等といった曲をかけると、逆に人々は興奮し翌日警察が出動するまでの騒ぎになった。同時に市内の通りでの、外国人に対する攻撃も繰り返されるようになり、最終的には軍まで出動する始末となった。7月28日オーストリアはセルビアに宣戦し、ここに第一次世界大戦が始まった。

そのような状況で7月31日バイエルン王ルートヴィヒ3世はバイエルン全土に非常事態宣言を出した。同日、国境に兵士が動員されるという噂が拡がり、愛国心に燃えた市民がそれに熱狂した。翌日の午後ヴィッテルスバッハ宮殿のバルコニーから王は動員を発し、多くの市民が熱狂して応えた。さらに翌日には将軍堂前で大規模な集会が開かれ多くの市民が熱狂した。ここに当時25才でシュライスハイム通りに住んでいた絵葉書画家のアドルフ・ヒトラーも参加していた。人々は熱狂し、プリンツ・カール宮殿前で同宮殿に滞在していたオーストリア使節団に対し、皇帝フランツ・ヨーゼフへの敬意を表した。ただこういった熱狂的な動きに対し8月1日だけで58.000の人々がミュンヘンから他の街へと移った。

人々は戦争が早く終わるに違いないという意識を持っていたが、翌年1915年になっても戦争は終わらず、約3000人のミュンヘン出身の兵士が前線で亡くなった。夏、戦争は2年目に入ったが市民の間には早期の勝利を期待する雰囲気も少なくなった。というのは食糧や燃料が街に不足し始め、同年3月にはパン、小麦粉、生活用品等の食糧切符が配られるという状況になった。食料不足から食品の値段も高騰し、また配給が完全でなかったのと同時に、兵士として招集された人が多く、収穫にも影響があった。

1916年ミュンヘンでは一週間に125グラムのバター、砂糖、石鹸、洋服の配給が行われた。またエネルギーを節約するため夏時間制が導入され、復活祭の卵には色づけが禁止、ビールも弱い種類のものだけに限定された。市場ではウサギやリスの肉しかなく、ゼンメル(パン)も無かった。そのような状況でもバイエルンは穀物を国に納める必要があった。ミュンヘンでは市民をそのような苦境に追い込んだ国に対して、つまりプロイセンに対して大きなデモがマリエン広場を中心に行われた(1916年6月)。またこの年だけで3207人のミュンヘン出身の若い兵士が亡くなった。その中には画家フランツ・マルクの名前もあった。

こういった状況に対し、バイエルン王ルートヴィヒ3世はフライマン地区に新たに大砲のための工場を建設した(その工場の一つが後に BMW となる)。しかしミュンヘン市内ではそのための原料を手に入れることが難しくなっていた。それ故、鉄や石炭を輸入するようになったが、同時にザクセンから約1000人の労働者を連れてきた。彼らが後に革命を起こす力となる。

ザクセンからの労働者が来たにもかかわらず、ミュンヘン(だけでなくドイツ全体)の状態は良くならなかった。1916/17年の冬には大寒波が来て、石炭だけでなく生活用品を手に入れるのも困難な状況になった。1916年6月には既にマリエン広場で女性によるデモが行われていたが、1918年1月31日には先に挙げたフライマンの工場でストライキがあり、彼らはシュヴァービングに向けてデモ行進した。その際後の革命指導者となるクルト・アイスナーが演説をした。また彼ら以外にも別の工場でも同様の動きがあり、2000人の集団が中央駅に向かってデモ行進した。その翌日は約8000人のミュンヘンの労働者が仕事を拒否したが、同時に彼らを指導したと言うことでアイスナーは逮捕された。また翌年2月2日からテレージエンヴィーゼで大規模な集会が開かれ同時にゼネストも行われた。それは4日に終了したが、9ヶ月以上逮捕されていたアイスナーは抗議の表明として、髪の毛と髭を伸ばし始めた。

ゼネストは終了したが戦争は未だ終わりが見えない状態にあった。その間も物不足から物価は高騰し、戦前68キログラムの肉が同じ値段では14キログラムしか買えず、牛乳も戦前に比べて価格が1.7倍、小麦粉は4倍になっていた。1918年8月、数百人からなるミュンヘンの女性団体が再度マリエン広場で抗議デモをしたが効果はなく、また10月にはインフルエンザが市内に流行し、約200人の人がそれで亡くなった。

戦前ミュンヘンの人口は645.000人を数えたが戦後、その数は40.000人以上少なくなっていた。約13.000人のミュンヘン人が『パリまで無料の旅行!』と前線に送られた。この戦争では合計65.000.000人が動員され、そのうち8.500.000人が亡くなり、21.000.000人が負傷した。この戦争では条約で禁止されていた毒ガスが使用され、多くの人が初めて戦争が何を意味するか知った。

1914年8月レジデンツからのパレード

1914年8月レジデンツからのパレード
 

オデオン広場

1914年8月2日のオデオン広場
ヒトラーが写っているとされる 有名な写真

 

 

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