やまねこの物語

散歩 ミュンヘン革命 1918年

第一次世界大戦でドイツ軍が敗戦したことは多くのドイツに人にとってショックなことであり、人々の中には失望、怒り、新たなものへの変革願望という気持ちがあった。1918年10月27日、オーストリア政府は他の同盟諸国に停戦することを呼びかけた。しかし停戦の実現が遅れている間に、11月4日キールにおける水兵の暴動をきっかけとして平和を求める運動がドイツ各地に波及した。ドイツの多くの街同様ミュンヘンでもそういった運動が起こり、ミュンヘンではプロイセンのベルリン体制に先行した革命が勃発した。11月7日に20万人からなるデモがあり、8日バイエルン共和国の成立とヴィッテルスバッハ王朝の廃止が宣言されたものである。

この革命の主導者はドイツ生まれのユダヤ人であるクルト・アイスナーであったが、彼は革命が起こる前の5日、テレージエンヴィーゼで「数日後にはミュンヘンで蜂起が起こり、政府は瓦解するだろう」との演説を行っていたが、内務省はそれに対して特に何もしていなかった。社会民主党と、アイスナー率いる独立社会民主党は共同で「7日にテレージエンヴィーゼでデモをする」と予告した時、内閣の間にはそれが本当に上手くいくか疑問の声があがっていた。その7日、午後3時頃アイスナーは髭を蓄えた姿で聴衆の前に現れた。

ミュンヘン市内では平和要求のデモが既に拡がっていた。その日ほぼ全てのお店はお昼で店を閉じた。これは市行政局によって予め極秘裏に通達があったのと同時にお店で働く人もデモに参加することが出来るようにするためである。アイスナーの演説が予定されているテレージエンヴィーゼにはミュンヘン市内からだけでなく、軍事工場のあるフライマンやギージング地区から多くの労働者が集まった。またそこには軍港キールに帰る途中であった多くの水兵の姿もあった。彼らはミュンヘンを電車で通り過ぎようとしたとき、ミュンヘン市内には革命の気運がありそこから先に行くことが出来なかったのである。

テレージエンヴィーゼには午後3時の時点でおよそ15万人の人が集まり、最終的には20万人が広場を埋め尽くした。そこでは行政の民主化、ドイツ皇帝の退位、皇太子の王位継承の放棄、8時間労働制の導入の決議が出された。その後一部の群衆は社会民主党の議員であるエルハルト・アウアーに従ってテレージエンヴィーゼからカール広場、マクシミリアン通りを通って、平和の天使像まで行進をした。またアイスナーは約2000人の集団を引き連れて自動車部隊が配置されていたカツマイヤー通り、国民兵のいるグルドアイン通りを行進した。行進はさらに進み、マルス兵舎、トゥルケン兵舎、マックス2世兵舎へと進んだ。その日軍事省内では革命が成功するに違いないという気運が拡がっていた。兵士の中には革命軍に味方するもの、また中には家に帰る兵士や軍に残る者もいた。兵士は、革命軍にも正規軍にもいるという状態になり、兵士同士の撃ち合いを避けるため軍は、犠牲者を出すことなくアイスナー率いる労働者や兵士による革命軍に加わった。

この革命の動きがあった時間、バイエルン王ルートヴィヒ3世は毎日の日課となっているように英国庭園で散歩をしていた。そして革命の動きには敏感でない状態であった。しかし午後7時にはレジデンツの憲兵が職場を放棄し、革命軍は午後8時中央駅と通信局を、午後10時新聞社、州議会を闘争無しに占拠した。そのような状況下、午後10時半、ルートヴィヒ3世や病に伏していた王妃を始めヴィッテルスバッハ家一族は灯りのついていないレジデンツ裏口から車に乗ってキーム湖に向けて逃げ出した。

ミュンヘンでのこの無血革命が起こっている間、街の大部分は一見すると普段と変わらない状態であった。「革命だ!」と騒ぎ立て熱狂する人々が大勢いるわけでもなく、また軍は革命軍を取り締まる行動を取っていたわけでなかったので、つまり厳戒態勢のような状況下に街があったわけではなく、多くの市民にとっては普段通りの一日であった。翌日王室の最高執事がいつものようにレジデンツにやってきた。その時初めて彼は既に宮廷が存在しないということを知り、また6年前からミュンヘンの音楽総監督を務めていたブルーノ・ヴァルターは新聞で初めてその動きを知った。また街中には至る所に『ヴィッテルスバッハ王朝崩壊!共和国樹立!』というポスターが貼られていた。ミュンヘンでのこの革命は明らかに驚くべきことであった。ノーベル化学賞を受賞したリヒャルト・ヴィルシュテッターも日記でそのように書いている。

革命の翌日つまり11月8日にミュンヘンに住んでいたトーマス・マンは彼の日記に「ミュンヘンはユダヤ人に支配されるようになった」と書いている。革命の日の夜、彼は妻と共にトーンハレ(コンサートホール、第二次世界大戦の空襲により崩壊)にコンサートを聴きに行ったあと、ホテル「フィア・ヤーレスツァイテン」で食事をしたが、彼は既にテレージエンヴィーゼでデモが行われるのを知っていたので、外から聞こえてくる人々の声で革命を感じていた。またアインミラー通りに住んでいたリルケは手紙の中で「早急だが喜ばしいこと」といった内容のことを書いている。

そして11月8日バイエルン共和国成立が宣言され、労働者、兵士、農業団体それぞれから50人の代表、および社会民主党と農業組合の代表、保守政党の3人の代表が出席した臨時評議会は評議会(レーテ)の代表にアイスナー(独立社会民主党)を選び、彼の内閣を承認した。アイスナーが首相と外相を兼ね、アウアー(社会民主党)が内相に選ばれた。この内閣には独立社会民主党から2人、多数派社会民主党から4人、無党派から2人選ばれた。そして1919年1月12日に州議会選挙が行われることが決められた(12月5日)。

11月13日王ルートヴィヒ3世が正式に退位し、11月17日ナツィオナルテアター(バイエルン州立歌劇場)で兵士、労働者、農業団体による革命勝利式典が行われた。これはエマヌエル・フォン・ザイドゥルが演出し、アイスナーの演説やブルーノ・ヴァルター指揮のもと、ベートーヴェンとヘンデルが演奏されるといった内容であった。数週間後の12月21日はミュンヘン工科大学でも同様の式典が行われた。

ミュンヘン市内には革命成功の華やかな雰囲気があったが、ここに新しいインフルエンザが流行し、約1000人がそれで亡くなった。また同時に失業者の数も40.000人まで上昇していた。そのうち4000人が1919年1月7日の午後、テレージエンヴィーゼでデモを行い、プロメナーデ広場にある社会福祉省に向けてデモ行進をした。しかしここで銃の乱射事件があり3人が死亡、8人が重傷を負った。また3日後には6人が亡くなり、ここまで一人の犠牲者も出さずに進んでいた革命がここに来て初めて犠牲者を出した。

そのような状況下で1919年1月12日バイエルンでは州議会選挙が行われた。ミュンヘンには当時356.917人の選挙権を持った市民がおり、この選挙で初めて女性にも選挙権が与えられた。選挙の結果は、ミュンヘンでは多数派社会主義者が47パーセント、バイエルン国民党が25パーセント、ドイツ国民党が19パーセントでアイスナー率いる独立社会民主党はわずか5パーセントであった。それ以外では中道保守が1,5パーセント、民主主義人民党が0,5パーセントとなっている。バイエルン全体ではバイエルン国民党が35パーセント、社会民主党が33パーセントを獲得し、アイスナーの独立社会民主党はわずか2,5パーセント(180議席中3議席)に過ぎなかった。その結果を受けてバイエルン共和国首相アイスナーは2月21日から始まる議会で辞任を発表する決意をした。

 

 

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