やまねこの物語

散歩 新市庁舎建設 1867年

中世以降ミュンヘンは大きく発展し、1854年にはアウ、ギージング、ハイトハウゼンの各地区がミュンヘン市に併合され、1864年にはラマースドルフ地区もミュンヘンの一部となった。その結果市の行政範囲が広くなったのと同時に、建物自体も分散する形となったので、市は新しい市庁舎を建設する考えに至った。しかしミュンヘン市民の多くは新しい市庁舎よりも下水道の敷設や市場の屋根を設置して欲しいという要望があった。というのは同じ頃、1862/64年に市庁舎(現在の旧市庁舎)がゴシック様式化され(この建物は第二次世界大戦の空爆で崩壊し、戦後、祝祭の間と塔が再建された)、市の行政の場として利用されていたからである。

市と市民の間には意見の違いがあったが、市にとって新しい市庁舎建設の機会が訪れた。マリエン広場から延びるディーナー通りにあるオーバーバイエルン議会がマクシミリアン通りに新たに建設されたそれ専用の建物に完全に移ることになり、建物を取り壊し、新たに建てる機会が生まれたのである。そして1865年市議会は新市庁舎建設の具体的な作業に取りかかったが、ここで、それまでの建物の外観を残すかどうかと言う新たな議論が生まれた。そして1865年の夏、市の建設技師であるアーノルド・ツェネティが市議会に新市庁舎の設計図を提出した。彼の案ではそれまでの外観を活かし、イタリア・ルネサンス様式で建設されるというものであり、市議会はそれを承認した。

しかし2人の区長、8人の法律関係者、20人の評議会からなる委員会にて次の決定がなされた。つまり新市庁舎の建設には賛成だが、ツェネティの出した案をバイエルン王国の首都としてふさわしくないとの理由で拒否するというものである。そこで彼らは新市庁舎の外観デザインを一般公募することに決めた。審査委員は建築家のゴットフリード・フォン・ノイロイター、アウグスト・フォン・ヴォイト、ヨーゼフ・フォン・エクルが務めた。公募の告知は同年1865年11月7日、アウグスブルク新聞と2つの保守的な新聞に出されたが、建築新聞には出されなかった。この公募では建築そのものではなく単に外観デザインが競われたが、その締め切りが1866年3月31日と、巨大な建築にもかかわらずその期間は非常に短かった。

そして公募の結果が発表された。公募には26人の建築家が参加していたが、一等賞はなく二等賞としてルートヴィヒとエミール・ランゲ(親子)の作品が選ばれた。彼らは新市庁舎の外観だけでなくマリエン広場全体の建設計画も設計していた。三等賞には建築家オットー・ターフェルとアルフレード・ブルントシルの作品が選ばれた。しかし審査委員は彼らの作品を委員会に推薦することが出来ず、審査委員は該当者がいなかった一等賞の賞金を使って5人に設計図案を依頼した。結局、一般公募では良い作品がなく、1866年5月9日、委員会が招集され、ツェネティが最初に提出した案と公募の作品を比較し、ツェネティの作品はまたしても反対された(反対したのは2人)。

それから公募で選ばれた2つの作品と依頼した5つの作品についての議論がなされたが、ツェネティが最初に出して市議会に承認されたものより良いものはなかった。ツェネティの案は委員会で反対されたが、反対された理由がイタリア・ルネサンス様式であったがためで、委員会は彼にゴシック様式の案を求めたが、彼はゴシックについて研究したことがなく案を出すことが出来なかった。委員会の中には「ドイツの市庁舎だからイタリア・ルネサンス様式ではなく、ドイツ・ゴシック様式で建てるべきだ」という意見があった。これは愛国主義者であり、委員会内に非常に大きな影響力を持っていたフェルディナント・フォン・ミラーの意見である。しかし委員の大多数はツェネティの案を支持していた。ツェネティはさらなる案(ルネサンス様式)を出したが、みなを納得させることは出来なかった。

公募の際、審査委員によって依頼された5つの図案の中の一つはゲオルグ・ハウベリッサー(1841-1922)によるもので、先述のミラーが彼の案を強く押していた。彼の案はゴシック様式であった。様々な議論の結果、新市庁舎はイタリア・ルネサンス様式かドイツ・ゴシック様式で建築されるべきだという考えでまとまり、また同時にミラーの考えに賛同するものも増えてきた。そこでハウベリッサーは直ぐに新たな案を出したが、これはさらに建築費用のかかるものであり市議会でもそれについて議論された。しかしこの案は費用が高くなったにもかかわらず、市議会の多数決(11対10)で承認され、また委員会でも多数の賛成を得た。1866年12月の始め、市はグラーツ出身で25才の建築家ハウベリッサーに新市庁舎建設を依頼した。

新市庁舎の建設は1867年6月1日正式に開始され、8月25日バイエルン王ルートヴィヒ2世の22才の誕生日に定礎式が行われた。工事は始まったものの、若くまだ経験のない建築家ハウベリッサーは全てを取り仕切って工事をしたかったので、1874年になり外観はようやく完成に至ったが、議会などの内部はまだ装飾もされず、1881年1月4日になって初めて完全な姿になった。その日、第一市長のアロイス・フォン・エアハルトが演説を行ったが、この建築は当初予定されていた金額より215万マルク多く費用がかかった。

マリエン広場とディーナー通りの角に新市庁舎(煉瓦造り)は建ったが、街がさらに大きくなっていく中ではそれは直ぐに小さなものとなったので、ハウベリッサーは新たに設計をし1888年から北側の拡張工事が始まった(1893年終了)。続いて1899年からも新市庁舎西側(塔を含む凝灰石で出来た部分)の拡張工事も始められ1908年建物は完成した(この拡張工事にため24軒の家が取り壊された)。新市庁舎は7115平方メートル以上あり、市はその建築に最終的に1570万マルクを支払わなければならなかった。費用がかかりすぎるという非難も少なくなかったが、市民にとっては塔にある仕掛け時計(グロッケンシュピール)で過去に触れることも出来、誇るべきものとなった。

グロッケンシュピールに関しては、裕福なミュンヘン市民でありスペイン領事であったカール・ロジパルが大いに貢献した。彼は1904年の彼の会社の100周年記念にグロッケンシュピールを市に寄付した(金額は彼の想像を遙かに超え30.000マルクかかった)。鐘の数は43個あり合計で7トンの重さがある。また32体の人形だけでも約50.000マルクの金額がかかっている。ドイツでは最大のこの仕掛け時計は、上段がヴィルヘルム5世と公爵令嬢レナーテ・フォン・ロートリンゲンとの結婚(1568年)を記念した馬上試合を表し、下段では桶職人たちが1519年に由来する彼らの踊りを踊っている。また高さ85メートル12階の塔の先端にはミュンヘンのシンボルであるミュンヘン小僧があるが、これは1905年彫刻家アントン・シュミットが彼の5才の息子をモデルにして作ったものである。

また2002年から新市庁舎の屋根の上の飾りを、当時のようにする修復工事がなされている。

新市庁舎

1872年の新市庁舎 

新市庁舎左部分の建設

1899年新市庁舎西側拡張工事

新市庁舎

2002年から始まった新市庁舎屋根飾りの修復 

新市庁舎

同左(取り付け工事中)

ミュンヘン新市庁舎と聖母教会

新市庁舎と聖母教会 

 

 

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