やまねこの物語

散歩 ミュンヘン市の拡大 19世紀

1850年ミュンヘンの人口は10万人を突破し、ベルリン、ハンブルク、ブレスラウ(現在ポーランド領)に続くドイツでは4番目の大きな街となった。1867年ミュンヘン新市庁舎の定礎式が行われたとき、ミュンヘンの人口は15万人を超え、新市庁舎が完成(第一期)した頃には人口は23万人を超えていた。そして1908年新市庁舎が現在の姿になったときには、その数は568.000人となっていた。1875年から1880年の間には2ヶ月ごとに約千人人口が増えていたが、1890年からは毎月約千人の人口増加があった。

こういったミュンヘンの人口増加の原因はミュンヘン周辺の地域や村がミュンヘンに併合されたのに帰する。1854年、アウ、ギージング、ハイトハウゼンの各地区がミュンヘンの一部となった。その後、ラマースドルフ(1864年)、ゼントリンク(1877年)、シュヴァービングとノイハウゼン(1890年)、ボーゲンハウゼン(1892年)、ニンフェンブルク(1899年)、ライムとタールキルヒェン(1900年)、フォルステンリード(1912年)、ミルベルツホーフェンとベルク・アム・ライムとオーバーフェーリングとモーザッハ(1913年)の各地区がミュンヘンの一部となった。

またミュンヘン市が拡大していくと共に外からも、例えば仕事を探してやってくる人が多くなった。1900年12月ミュンヘンの人口は499.632人いたが、そのうちミュンヘン生まれの人は全体の36パーセントに過ぎなかった。逆に75.000人がオーバーバイエルン地方から、60.000人がニーダーバイエルン地方からやって来た。またオーバープファルツから41.000人、フランケンから43.000人、シュヴァーベンから37.000人、バイエリッシェ・プファルツから5.500人、他のドイツ領から35.000人、ミュンヘンに引っ越ししてきた。外国人の数は当時全体の4.8パーセント(1990年は16.7パーセント)。

このように多くの人がミュンヘンにやってきたので、ミュンヘンは住居不足という状況になり、同時に家賃自体も上昇したので、多くの人はミュンヘン市内ではなくその周辺地域に住むようになった。例えばパージングには1852年時点で590人の住民しかいなかったのが、1890年には2536人、1905年には7000人を突破した。ミルベルツホーフェンも1895年は住民数が432人の小さな村であったが、15年後には10倍以上の数に、ノイハウゼンでは1869年、人口1000人だったのが30年後には12.000人になっていた。それらも全てミュンヘンの一部となり、ミュンヘンは合計で18の区域から構成される街となった。

市が大きくなるのと同時に、行政で働く人の数も多くなっていった。1870年当時はまだ現在の旧市庁舎で仕事がなされていたが役人数は190人であった。1900年にはその数が1821人に、1910年には2921人、第一次世界大戦が始まったとき(1914年)には5223人、1920年4月1日には9136人になり、1990年にはその数は48.505人となった。

また街が大きくなっていくのと同時に、それぞれの地域に住居、水道施設、学校、交通網などの整備が求められた。そこで1893年、市の建築技師であるテオドール・フィッシャーは市拡張事務所を設け、そういった問題に当たった。

ところで最初にミュンヘン市の併合について書いたが、ミュンヘン市の拡大はアウ、ギージング、ハイトハウゼンとの併合から始まった。アウ地区はイザール川を挟んでミュンヘンと反対側にあり、正式に独立した街であったが、ここにはミュンヘンと比べると貧しい人々が多く住んでおり、ミュンヘンはアウ地区に住む人々を中世から低賃金労働者として働かせていた。しかし合併後、アウ地区の人たちもミュンヘン市から援助を受けることが出来るようになった。その南にギージング地区があるが、ここは当時土地が安く、多くのミュンヘン市民がここに新たな住居を求めた。

またハイトハウゼン地区はバイエルン王マクシミリアン2世が、マクシミリアン通りの最終地点、つまりイザール川を渡ったハイトハウゼン地区にマクシミリアン議事堂を建設したかったので、その地の併合に至った。またハイトハウゼン地区に1872年建設された東駅の西側には、ボルドー広場、オルレアン通り、パリザー(パリ人)通り、セダン通りなどフランス名の名前が多く、フランス人地区とされていたが、ここは1870/71年の普仏戦争のフランスからの賠償金で市の建築技師であるツェネティが住居を建てたことに帰する。

ボルドー広場
ボルドー広場

かつてのパージング市庁舎

かつてのパージング市庁舎

 

 

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