やまねこの物語

散歩 ヴァーグナー祝祭劇場の建設

1864年バイエルン王マクシミリアン2世が亡くなり、同年3月10日、王子であったルートヴィヒ2世が弱冠18才の若さで王位についた。ヴィッテルスバッハ家はかつてから学芸を愛した王たちを数多く輩出しており、ルートヴィヒ2世の祖父であるルートヴィヒ1世は王都ミュンヘンを「ドイツの芸術、学問、建築に中心」とすべく、その基礎を気付き、ルートヴィヒ2世の父であるマクシミリアン2世は学者や文人を身辺に集めた。そしてルートヴィヒ2世は音楽家リヒャルト・ヴァーグナー(1813.5.22-1883.2.13)に手紙を出し、バイエルンに招いた。こうして当時窮乏のどん底にいたヴァーグナーは、人生最大のパトロンに巡り会った。

そして1864年11月にルートヴィヒ2世は『ニーベルングの指環』上演のため、イザール川岸に新たに劇場を建てることを考えた。建築責任者にはドレスデンのゼンパー・オペラを建築したゴットフリード・ゼンパー(1803-1879)が選ばれたが、彼は何処に劇場を建設して良いか具体的には分からなかった。ただこの劇場がミュンヘンの音楽史において最も意味あるものになるとは感じていた。そして1867年6月、ヴァーグナー祝祭劇場のモデルが完成し、翌年から工事が始められることとなった。

しかし、その建設に関して予算がかかりすぎると言うことで議会が反対した。また既にミュンヘンには王立劇場があるので、新たな劇場は必要ないという意見もあった。ヴァーグナー自身は、当時一種の社交場となっていた従来のオペラハウスでは観客を完全に自身の音楽に集中させるのは難しいと考え、自らの音楽を上演するための劇場建築を望んでいた。ちょうどその時、バイエルンのバイロイト市が積極的に劇場建設を誘致した。ヴァーグナーにとっては王から財政的援助を得るためにはバイエルン国内であることが望ましく、また同時に王や政府からの干渉を防ぐため、劇場は首都ミュンヘンから、ある程度離れていた方が良いとの考えがあった。バイロイトはそういった条件を満たし、しかも劇場建設予定地が美しい丘の上にあったので祝祭劇場はバイロイトに建設されることとなった。

ちなみにミュンヘンで予定されていたヴァーグナー祝祭劇場はイザール川岸であり、現在そこには王ルートヴィヒ2世像が立ち、そこは「王ルートヴィヒ2世の道」と名付けられている。

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場のモデル

ヴァーグナー祝祭劇場

ヴァーグナー祝祭劇場

ゼンパー像

ゼンパー像

王ルートヴィヒ2世の道に立つルートヴィヒ2世像
王ルートヴィヒ2世の道に立つルートヴィヒ2世像

 

 

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