やまねこの物語

散歩 中央駅の建設 1848年

19世紀、ドイツでも他のヨーロッパの国々同様、産業などの工業化が進められたがミュンヘンは他のドイツの街に比べると産業都市になることが出来なかった。1882年の調査ではミュンヘンの人口の44.6パーセントが工業、土木建築業に従事する労働者で、人口においてはドイツ帝国内で4番目に大きい街だったにもかかわらず、労働者人口は9番目となっていた(ニュルンベルクが55.5パーセント、ベルリンが54.3パーセント、ケルンが47.3パーセントとなっている)。

ミュンヘンの工業化が遅れた理由の一つに、街が川(イザール川)に依存し過ぎていたというのが挙げられる。川では人・物を運ぶのに限度があり、、また天候にも大きく左右されるところがあって、ミュンヘンの発展のためには新たな輸送手段の確立などが求められた。

そして1839年9月1日、ミュンヘンで初めて鉄道が走った。ミュンヘンと近郊の街ロッホハウゼンを鉄道が結び、その日13人のミュンヘン人がこれに乗った。11月にはオルヒング、クリスマス前にはマイザッハまで鉄道が延びた。そして1840年10月4日にはミュンヘンから初めてアウグスブルクまで鉄道が走り、その9年後にはその路線がネルトリンゲン、ニュルンベルクまで延ばされた。

路線が延びるのと共に人々は駅の建設にも夢中になった。それまでの駅は仮のもので、当時は郊外であった、現在のハッカー橋付近に木造の建物があった。しかしその建物は1847年の復活祭の日曜日、その日は吹雪であったが、焼失してしまった。放火との説が有力だったが確証はなかった。それが新しい駅建設に影響を及ぼしたかは定かではないが、いずれにしても新しい駅は王の依頼もあり、現在の中央駅(当時は射撃場)の場所に建設されることとなった。建築責任者にはフリードリヒ・ビュルクラインが選ばれた。

そして1848年、新たな駅が建設され、翌49年10月1日、この新しい駅から鉄道が走った。同時に路線のさらなる拡大が行われ(特に東に向けて)、1858年にはランヅフート、1859年レーゲンスブルクまで鉄道が延ばされた。ミュンヘン駅は1893年にシュタルンベルク駅、1913年ホルツキルヒナー駅を追加し、当時ドイツ最大の駅となった(現在のミュンヘン中央駅もドイツ最大の折り返し駅である)。鉄道が整備されることによってミュンヘンも工業的に発展するようになった。

ところで1854年のクリスマス、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃シシーがミュンヘンを訪れたが、当時は鉄道の路線がまだ街の東には延びておらず、皇帝一行はプラハ、ライプツィヒ、ホーフ、ニュルンベルク、アウグスブルクと乗り継がねばならなかった。しかしその6年後の1860年9月1日は、ミュンヘン、ザルツブルク、ウィーン間が鉄道で結ばれ、その完成式典がミュンヘンのガラス宮殿で行われ、皇帝やバイエルン王マクシミリアン2世が式典に参加した。

中央駅

1855年頃の中央駅(1848年建設)

中央駅

1857-60年拡張された当時の中央駅

中央駅

1912年頃の中央駅

中央駅構内

1912年頃の中央駅構内

中央駅ホーム

1912年頃の中央駅ホーム
鉄とガラスの構造で1877-83年建設

中央駅ホーム

1912年頃の中央駅ホーム

中央駅

1925年頃の中央駅

ハッカー橋から

1870年頃のハッカー橋から見た中央駅
ハッカー橋は1869年完成

 

 

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