『白バラ』とは第二次世界大戦下のミュンヘンでナチス・ドイツに対し抵抗運動した(主に)学生グループの名前である。主要メンバーはハンス、ゾフィー・ショル兄妹を中心にアレクサンダー・シュモレル、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフとミュンヘン大学哲学科クルト・フーバー教授。1942年春から「反ヒトラー、反国家社会主義」などを書いたビラをまき始めた。またミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マキシミリアン大学)だけでなく、他の街、例えばシュトゥットガルト、フランクフルト、マンハイムの大学にもビラを送り、同時にハンブルク、ベルリン、ウィーンの各大学内の反ナチスグループと連絡を取った。
ナチスは当時、ドイツをいくつもの地区に分割し、それをガウと呼び、その指導者をガウライターと称していた。1943年1月ミュンヘン地区のガウライター、パウル・ギースラーがドイツ博物館会議室でルートヴィヒ・マキシミリアン大学創設470周年記念演説をミュンヘン大学の学生、教授陣を前にして行った。その中で女子学生は勉強するより子供を産むべきだ、と演説したのに対し、学生はブーイングで応え、ゾフィーをはじめ女子学生は靴を脱ぎ、それで床を叩く行動に出た。それらの行動からゾフィーはミュンヘンに反ナチスの動きが芽生えつつあるということを感じとり、また東方戦線でドイツ軍が降伏したことを知ったのを機に、同年2月グループ白バラはビラまき活動だけでなく、ミュンヘン大学の壁に白色の油性ペイントで反ヒトラーのスローガンを書き込んだ。(彼らはビラまき活動に印刷代など約1000マルクの費用がかかったが全て自分たちで負担した。)
1943年2月18日ショル兄妹はミュンヘン大学のリヒトホーフ(中央校舎正面玄関ホールの階段を上がった先にある階段を下りたところにある、ガラス天井の空間)3階から1500-1800枚のビラをまいたところを、ミュンヘン大学の管理人(彼はSA突撃隊所属)に見つかり、学長の事務室に引きずり込まれた(学長はSS親衛隊所属)。それから秘密警察(ゲシュタポ)に通報され、二人はその場で逮捕された。二人はゲシュタポ本部があるヴィッテルスバッハ宮殿に連行、留置され、同月22日、他のメンバーと共に民族裁判所で死刑判決を受けた。ハンス・ショル(25才)、ゾフィー・ショル(22才)、アレクサンダー・シュモレル(26才)、ヴィリー・グラーフ(25才)、クリストフ・プロープスト(24才)だった。また他のメンバー13人やフーバー教授にも捜査の手が伸び、教授も逮捕され死刑判決を受けた。
ナチスにとって一番ショックだったのはこの白バラの運動が、ナチズム発祥の地ミュンヘンで起こったということだった。また白バラのメンバーがドイツ各地に送ったビラはノルウェー経由でロンドンまで届き、1943年夏イギリス軍はそれのコピー数千枚をルール地方の上空からまき、またイギリス国営放送BBCは6月23日、ドイツ国民に向けて白バラの活動について放送した。ソ連でのドイツ降伏、ドイツ国内での白バラなど反ナチ活動から、一般的なドイツ国民の間にも反ナチ感情が生まれはじめ、またこの年だけでも数回のヒトラー暗殺計画がドイツ国防軍によってなされた。同じくしてナチス・ドイツは国民に総力戦を発する。いよいよドイツが破局に向かって動き始めた。
現在、ミュンヘン大学中央校舎前庭の広場はショル兄妹広場といい、道を挟んだ反対側はプロフェッサー・フーバー広場という。ミュンヘン大学には白バラに関する資料を展示した白バラ記念館やリヒトホーフに白バラ記念碑がある。またビラをまいた3階には白バラメンバーの名前が刻まれた碑があり、中央校舎正面入り口(地面)には彼らのまいたビラが展示されてある。それ以外にはバイエルン総理府横のルネサンス回廊入り口に平和の記念碑があり、そこに白バラのまいたビラからの引用がある。
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