やまねこの物語

ミュンヘンと有名人 その2

僕、“やまねこ”はドイツの南部、ミュンヘン市に住んでいます。このページではそのミュンヘンと関係のある有名人について、特にミュンヘンでの活動などについて書いています。ミュンヘンには彼らの名前の付いた通りや広場があります。(政治関係、音楽、文学・学者は「ミュンヘンと有名人 その1」にあります。)
 

絵画・彫刻など

フランツ・フォン・レンバッハ Franz von Lenbach (1836.12.13-1904.5.6)

 レンバッハの肖像画

ミュンヘンを中心に活躍した伯爵画家レンバッハは肖像画家として有名で芸術愛護者としても名高かった。同じ芸術愛護者としてルートヴィヒ1世を尊敬しており、そのルートヴィヒ1世が造営したケーニヒ広場の側にアトリエ・ギャラリーの建設を考えた。建築はミュンヘンに住む有名な建築家ガブリエル・フォン・ザイベルに依頼した。現在彼のアトリエは彼のコレクションをもとに現代美術を数多く展示している市立美術館となっている。彼のお墓は西墓地にある。

 

フランツ・フォン・シュトゥック Franz von Stuck (1863.2.23-1928.8.30)

シュトゥックの肖像画

ミュンヘン芸術学院の教授であった公爵フランツ・フォン・シュトゥックは画家、グラフィックデザイナー、彫刻家として活躍した。彼もレンバッハと同じくアトリエ兼ギャラリーの建築を考え、家具などを自ら制作した。擬古典様式とユーゲントシュティール様式で建てられた彼のアトリエは現在、博物館として彼の作品(絵画・家具など)やユーゲントシュティール様式のものを展示している。

 

ワシリー・カンディンスキー Wassily Kandinsky (1866.12.4-1944.12.13)

 カンディンスキーの作品

1896年から1918年までミュンヘンで生活し、働いていたカンディンスキーはフランツ・フォン・シュトゥックの生徒となり、1907年には新しい芸術団体の代表となった。1911年フランツ・マルクと芸術家協会“青騎士”を設立した。カンディンスキーの数多くの作品は現在、レンバッハ市立美術館に展示されている。

 

フランツ・マルク Franz Mark (1880.2.8-1916.3.4)

 フランツ・マルクの胸像

ミュンヘンで生まれたフランツ・マルクはドイツ表現主義の代表的画家で1911年カンディンスキーと芸術家協会“青騎士”を設立した。マルクの数多くの作品は現在、レンバッハ市立美術館に展示されている。ミュンヘンには彼の住んでいた家が残る。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

ヨハン・バプティスト・シュトラウプ Johann Baptist Straub (1704.6.25-1784.7.15)

シュトラウプの作品 

バイエルンの代表的なロココ彫刻家として知られるヨハン・バプティスト・シュトラウプは1736年ミュンヘンの宮廷彫刻家となる。彼の作品は三位一体教会、聖ミヒャエル教会ベルク・アム・ライム、全聖人教会、聖アンナ修道院教会、シェフトラルン修道院教会、マリア被昇天修道院教会、聖アルト修道院教会、クヴィリエ劇場、ニンフェンブルク城、及びその庭園などで見ることが出来る。

 

イグナーツ・ギュンター Ignaz Guenter (1725.11.22-1775.6.28)

 イグナーツ・ギュンターの胸像

彫刻家イグナーツ・ギュンターはヨハン・バプティスト・シュトラウプの弟子として頭角を現す。1754年にはミュンヘンに自身の作業場を作り、彼によりロココ彫刻が最盛期を迎える。彼の作品は聖母教会、ビュルガーザール、聖ペーター教会、アザム教会、聖ゲオルグ教会、聖マリア教会、聖アンナ巡礼教会、聖ジルベスター教会、新シュライスハイム城、バイエルンナショナル博物館などで見ることが出来る。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

ジョージ・デズマレー Deorge Desmarees (1697.10.29-1776.10.3)

 

ジョージ・デズマレーはミュンヘンで最も有名で大切に扱われた肖像画家。1730年バイエルン王室の宮廷画家となる。彼の作品はレジデンツ、新シュライスハイム城、ルストハイム宮、ニンフェンブルク城、アマリエンブルク宮殿、いくつかの州立の絵画ギャラリー、バイエルンナショナル博物館、アルテ・ピナコークで見ることが出来る。

 

カール・シュピッツヴェーク Carl Spitzweg (1808.2.5-1885.9.23)

 カール・シュピッツヴェークの胸像

ミュンヘンで薬剤師だったカール・シュピッツヴェークは1833年、画家になる決心をし、1836年ミュンヘンの芸術グループに参加している。『貧しい詩人』など彼の作品はノイエ・ピナコテークやシャック・ギャラリーなどに展示されている。彼のお墓は旧南墓地にある。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

アルノルド・ベックリン Arnold Boecklin (1827-1901)

 ベックリンの家にある碑

世紀末芸術、象徴主義で幻想的画風をもって知られるスイスの画家、アルノルド・ベックリン(1827-1901)がミュンヘンで住んでいた家が残る。彼の作品はシャックギャラリーで観ることが出来る。

 

エラスムス・グラッサー Erasmus Grasser (1450-1526)

 

建築家で木彫り職人だったエラスムス・グラッサーは1474年ミュンヘンにやって来てミュンヘン旧市庁舎の祝祭の間のために16体のモリスケン舞踏人形を作った。現在それらのうち10体が現存し市立博物館の方に展示されている。また彼はミュンヘンの治水工事の専門家でもあった。彼の彫刻作品は聖ペーター教会、聖母教会、聖マリア教会ラマーズドルフ、市立博物館、バイエルンナショナル博物館、ブルーテンブルク城礼拝堂で見ることが出来る。

 

建築

アザム兄弟 E.Q.Asam (1692.9.1-1750.4.29)、C.D.Asam (1686.9.28-1739.5.10)

 アザム教会

E.Q.アザムは建築家、彫刻家、画家、塗装職人。C.D.アザムは画家、建築家。ミュンヘンで生活していた二人はバイエルンのロココ技術の基礎を築いた者、またロココの代表者でもある。彼らがミュンヘンで手がけた教会も多い。アザム教会、聖霊教会、聖アンナ尼僧院教会、三位一体教会、聖アンナ修道院教会、聖ペーター教会、フライジング大聖堂、フュルステンフェルト修道院教会などを手がけた。C.D.アザムの墓碑が聖母教会にある。

 

ヨハン・ミヒャエル・フィッシャー Johann Michael Fischer (1692.2.18-1766.5.5)

 ヨハン・ミヒャエル・フィッシャーの胸像

ヨハン・ミヒャエル・フィッシャーはバイエルンのロココ文化の創始者として、またその代表者の一人として数えられる。彼は単なる建築ではなく芸術的な関心を持っていた。マリア被昇天修道院教会でその才能を発揮し、バイエルンで32の教会、23の修道院を建てた。ミュンヘンでは聖ミヒャエル教会ベルク・アム・ライム、聖ゲオルグ教会、聖アンナ修道院教会、シェフトラルン修道院教会、聖アンナ巡礼教会、聖アルト修道院教会などを手がけた。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

フランソワ・クヴィリエ Francois de Cuvillies (1695.10.23-1768.4.14)

 クヴィリエ劇場

ミュンヘンで選帝候マックス・エマヌエルに使え、南ドイツでロココ文化の最も偉大な建築家、装飾家の一人として数えられる。1725年にミュンヘンの宮廷建築家となる。レジデンツやクヴィリエ劇場、アマリエンブルク宮殿、大司教の宮殿、ポルチア宮殿、ギゼ宮殿、新シュライスハイム城(構想)、テアティーナ教会(外観)、マリア被昇天修道院教会中央祭壇、シェフトラルン修道院教会(設計)などを手がける。また彼の息子もミュンヘンで建築家だった。

カール・フォン・フィッシャー Karl von Fischer (1782.9.19-1820.2.11)

 カール・フォン・フィッシャーの胸像

建築家カール・フォン・フィッシャーはルートヴィヒ1世によりマンハイムからミュンヘンへ呼ばれ、ミュンヘンに合計36の建築物を建てた。現在その多くは破壊され、州立劇場やプリンツ・カール宮、カロリーネン広場が(復元を含め)現在も当時の姿を伝えている。彼は19世紀のミュンヘン市拡大の計画者の一人。彼のお墓は旧南墓地にある。左の像はバイエルン州立歌劇場にあるもの。

 

フリードリヒ・フォン・ゲルトナー Friedrich von Gaertner (1792.12.10-1847.4.21)

ゲルトナー

ミュンヘンで建築を専攻したフリードリヒ・フォン・ゲルトナーは擬古典主義と歴史的な様式(ロマネスク、ゴシック、ヴィザンティン、ルネサンス)を融合させた。ルートヴィヒ通り建設の責任者となり、ルートヴィヒ・マキシミリアン大学、ルートヴィヒ教会、州立図書館、凱旋門、将軍堂、ヴィッテルスバッハ宮殿などを手がけた。彼のお墓は旧南墓地にある。左の写真はゲルトナー広場にあるゲルトナー像。

 

レオ・フォン・クレンツェ Leo von Klenze (1784.2.28-1864.1.27)

 クレンツェ

建築家レオ・フォン・クレンツェは画家、デザイナー、作家としても知られる。彼は1816年カール・フォン・フィッシャーから宮廷建築責任者の地位を受け、ミュンヘンに数多くの建築を建てた。アルテ・ピナコテーク、グリプトテーク、レジデンツ(部分)、プロピュレーエン、オベリスク(カロリーネン広場)、アルコ宮殿、ロイヒテンベルク宮殿、ルートヴィヒ・フェルディナント宮殿、マックス大公宮殿などを手がけた。彼の像がゲルトナー広場にあり、彼のお墓が旧南墓地にある。左の胸像は名誉堂にあるもの。ミュンヘンの名誉市民。

 

ヨーゼフ・エフナー Joseph Effner (1687.2.4-1745.2.23)

 エフナーの作品

建築家、造園家であったヨーゼフ・エフナーはミュンヘンで選帝候宮廷建築家だった。(後にクヴィリエに席を譲る。)エフナーはニンフェンブルク城庭園、新シュライスハイム城、ニンフェンブルク城内のマグダレーネンクラウゼ、バーデンブルク宮殿、パゴーデンブルク宮殿、フュルステンリード城、プライジング宮殿などを手がけた。

 

エンリコ・ズッカーリ Enrico Zucalli (1642-1724.2.8)

 ズッカーリの作品

エンリコ・ズッカーリはバイエルンで最も有名なイタリア・バロック建築家。1673年にミュンヘンの宮廷建築家となる。テアティーナ教会、レジデンツ、ルストハイム宮、新シュライスハイム城(設計)、ポルチア宮殿などを手がけた。

 

工業技術・物理・化学など

ルドルフ・ディーゼル Rudolf Diesel (1858.3.18-1913.9.29)

 ディーゼルの胸像

パリ生まれのドイツ人であるディーゼルはミュンヘン工科大学で勉強し、始めは冷凍工学の分野で働いた。その後ディーゼルエンジンを発明し、1892年特許を取る。彼は死ぬまでミュンヘンで過ごし、1901年には有名な建築家マックス・リットマンにボーゲンハウゼン地区に家の建設を依頼した。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

オスカー・フォン・ミラー Osker von Miller (1855.5.7-1934.4.9)

オスカー・フォン・ミラーの胸像 

ミュンヘンの技師であったオスカー・フォン・ミラーは画期的な発明家であり、発電分野で活躍した。1882年世界初の電線をミュンヘンに引いた。1903年ドイツ博物館を設立した。左の胸像は名誉堂にあるもの。彼のお墓はノイハウゼン墓地にある。

 

カール・フォン・リンデ Carl von Linde (1842.6.11-1934.11.16)

 カール・フォン・リンデの胸像

ミュンヘンで機械工学の教授だったカール・フォン・リンデは1876年圧縮による冷凍機を発明し、現在エアコンや冷蔵庫を製造するリンデ株式会社の母体を設立。1897年技師と企業家として成功し表彰される。左の胸像はドイツ博物館にあるもの。

 

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン Wilhelm Conrad Roentgen (1845-1923)

 レントゲンの碑

X線を発見したヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845-1923)は1900年ミュンヘンに移り住んた。1901年彼は最初のノーベル物理学賞を受賞し、1923年2月10日ミュンヘンで亡くなった(1900-23年の間彼はミュンヘンに住んでいた)。

 

ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファー Joseph von Fraunhofer (1787.3.6-1826.6.7)

 フラウンホーファーの胸像

1806年ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファーは光学士(眼鏡士)、物理学者としてミュンヘンで働き、1813年には眼鏡団体の代表となった。1814年には画期的な研究結果を発表し、重要な光学器械を発明した。1816年には初めて大望遠鏡の建設に成功。また彼は企業家としても活躍する。彼はフラウンホーファー線を発見、球面計を発明した。彼はミュンヘンの名誉市民であり、彼のお墓は旧南墓地にある。彼の作業場は市立博物館に復元されている。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg (1901.12.5 - 1976.2.1)

ハイゼンベルクの家にある碑 

ミュンヘン大学で原子物理学を研究した。 1925年には24歳の若さで行列力学を発見し、不確定性原理の発見、強磁性の理論、場の量子論、原子核構造模型を発表するなど、物性から素粒子に至るあらゆる分野に決定的な役割を果たした。20世紀の偉大な物理学者の一人といわれ、ノーベル物理学賞を受賞した。彼の住んでいた家が残る。

 

ユステュス・フォン・リービヒ Justus von Liebig (1803-1873)

 リービヒ像

ダルムシュタット生まれの化学者リービヒは、1852年からミュンヘンに住み、アカデミーの代表となる。彼はミュンヘンの名誉市民であり、彼のお墓が旧南墓地にある。またリービヒ像がマクシミリアン広場にある。

 

マックス・フォン・ペッテンコファー Max von Pettenkofer (1818-1901)

 ペッテンコファー像

衛生学者ペッテンコファーは、ミュンヘンで薬学を学び、1847年ミュンヘンで教授となり、その後コレラやチフスの研究をした。彼はミュンヘンの名誉市民であり、彼のお墓は旧南墓地にある。またペッテンコファー像がマクシミリアン広場に、碑がレジデンツ内(かつての王室薬局跡)にある。

 

フランツ・クサファー・ガーベルスベルガー Franz Xaver Gabelsberger (1789-1849)

 ガーベルスベルガーの胸像

ミュンヘン生まれのガーベルスベルガーはドイツの速記術を発明した人物で彼のお墓は旧南墓地にある。またガーベルスベルガー像がマクシミリアン広場にある。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

ゲオルク・ジモン・オーム Georg Simon Ohm (1787-1854)

 オームの胸像

「オームの法則」で有名なオームは1852年、ミュンヘン大学で物理学の教授となる。彼のお墓は旧南墓地にある。またオーム像がテレージエン通りにある。左の胸像は名誉堂にあるもの。

 

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト Philipp Franz von Siebold (1796.2.17-1866.10.18)

 シーボルトのお墓

日本人に非常に馴染み深いシーボルトは、ドイツの医者で長崎出島のオランダ商館医師として来日した。彼はバイエルン王ルートヴィヒ1世に民俗学博物館の設立を提案し、バイエルン自然科学アカデミーの一員となる。ドイツに帰国した彼はミュンヘンで亡くなった。彼のお墓は旧南墓地にある。

 

アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein (1879.3.14-1955.4.18)

 アインシュタインの幼少年期の家

ウルムで生まれたアインシュタインは1才にならないうちに家族でミュンヘンに引っ越し、ミュンヘンの学校に通っていた。1894年スイスに引越。

 

役者

カール・ファレンティン Karl Valentin (1882.6.4-1948.2.9)

 ファレンティン博物館

ミュンヘン人のカール・ファレンティン(本名ファレンティン・ルートヴィヒ・フレイ)は小さい舞台、寄席などで役者として大衆的に支持された。彼の言葉遊び、寸劇、コメディーなどは現在も多くのファンを集めている。彼に関してファレンティン博物館がある。

(政治関係、音楽、文学・学者は「ミュンヘンと有名人 その1」にあります。)

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