やまねこの物語

ミュンヘンと有名人 その1

僕、“やまねこ”はドイツの南部、ミュンヘン市に住んでいます。このページではそのミュンヘンと関係のある有名人について、特にミュンヘンでの活動などについて書いています。ミュンヘンには彼らの名前の付いた通りや広場があります。(絵画彫刻、建築、工業技術、役者は「ミュンヘンと有名人 その2」にあります。)
 

政治関係

バイエルン王ルートヴィヒ1世 LudwigT. Koenig von Bayern (1786.8.25-1868.2.29)

ルートヴィヒ1世像

バイエルン王マクシミリアン1世ヨーゼフの息子として王になったルートヴィヒ1世は1818年のバイエルン憲法を強く支持した。彼は王都ミュンヘンが「ドイツの教育・美術・建築の中心」となるよう街造りを追求し、レジデンツの完成、ケーニヒ広場の造営、ミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学)建設、バイエルン王立図書館建設、アルテ・ピナコテーク建設など芸術面を中心に庇護した。結果ミュンヘンは“イザール河畔のアテネ”と呼ばれるようになる。息子オットーはギリシャ王としてギリシャを統治していた。1830年代以降ルートヴィヒ1世は踊り子ローラ・モンテスに熱を上げ、王室財産をつぎ込んだ結果1848年退位となった。彼のお墓は聖ボニファツ教会にある。オデオン広場やミュンヘン大学に記念像がある。
 

 

バイエルン王ルートヴィヒ2世 LudwigU. Koenig von Bayern (1845.8.25-1886.6.13)

ルートヴィヒ2世像

王マクシミリアン2世の息子でミュンヘン・ニンフェンブルク城で生まれたルートヴィヒ2世は1864年バイエルン王となり次々と城を建築したことで“メルヘン王”として知られる。窮乏のどん底に落ちていたヴァーグナーに救いの手を差しのべた。そのヴァーグナーの提案もあり王はバイエルン王立音楽学校(現ミュンヘン音楽演劇大学)設立。またプロイセンのビスマルクが目指したドイツ統一に対してバイエルン王国の独自性と特権を主張し強い交渉能力を発揮した。1886年シュタルンベルク湖で謎の死を迎える。またバイエルン語で「王」というと一般的に彼を指す。 彼のお墓は聖ミヒャエル教会にある。王ルートヴィヒ2世の道に彼の記念像が、またコルネリウス橋にも記念像がある。

 

エリーザベト Elisabeth Eugenie Amalie (1837.12.24-1898.9.10)

エリーザベト

シシーの愛称で知られるエリーザベトはマクシミリアン・ヨーゼフ大公の次女としてミュンヘンのマックス大公宮殿で生まれた。1854年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚する。現在、マックス大公宮殿にはシシー生誕の碑があり、またシシーに関する世界初の博物館「皇妃エリーザベト博物館」には彼女の所有していた衣服、家具、手紙、オリジナルの写真など500点以上が展示されている。 

 

アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler (1889.4.20-1945.4.30)

 アドルフ・ヒトラー

オーストリア生まれのヒトラーは1913年ミュンヘンに引っ越しする。第一次世界大戦で志願兵としてバイエルン歩兵隊に入隊。戦争中に第一級鉄十字章、第二級鉄十字章、第三級軍事功労十字章、連隊賞状、第三級服務勲章などを受ける。戦争後ミュンヘンで旗揚げされたドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス)に入党。当時のミュンヘンは反ベルリンの中心地という状況の中、ヒトラーはミュンヘンで一揆を起こすが失敗。第三帝国下で建てられたナチスの建造物(総統官邸、党本部、芸術の家など)、ヒトラーの住んでいた家は現在も残る。

 

ハンス、ゾフィー・ショル兄妹 Hans(1918.9.22-1943.2.22)Sophie Scholl (1921.5.9-1943.2.22)

 ショル兄妹

ミュンヘン大学で医学を専攻していたハンスと生物学と哲学を専攻していたゾフィーのショル兄妹はナチスに抗議するグループ“白バラ”を設立し、ミュンヘン大学でビラまきの活動を行った。1943年二人とも処刑される。現在、ミュンヘン大学の中央校舎前の広場は彼らの名を取って付けられた。大学内にはビラの展示や記念館、記念碑がある。彼らのお墓はペルラッハ・フォルスト墓地にある。左の写真は白バラ記念館にあるもの。

 

フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス Franz Josef Strauss (1915.9.6-1988.10.3)

 フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港

ミュンヘン生まれのフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは1949-1978年の間、国会議員としてドイツ連邦議会に参加していた。アデナウアー首相のもと、国防大臣など3度大臣の椅子に座り、その後CDU(キリスト教民主同盟)とSPD(ドイツ社会民主党)の大連立の際にも財務大臣になる。1978年バイエルン首相になるためミュンヘンに戻ってきた。1992年に開港したミュンヘン国際空港は正式名フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港という。ミュンヘンの名誉市民。

 

神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ・バイエルン公 Kaiser Ludwig der Bayer (1282-1347)

 皇帝ルートヴィヒ記念像

バイエルン大公ルートヴィヒ4世は1314年、ドイツ王に選ばれた後、1328年神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた。その結果ミュンヘンは帝国の首都となる。彼は市の色や市の拡張など、現在のミュンヘンの基礎を造った。彼の墓碑は聖母教会にある。カイザー・ルートヴィヒ広場に彼の記念像があり、またアルターホーフ入り口にも記念像がある。

 

バイエルン公アルブレヒト5世 Albrecht X. (1528.2.29-1579.10.24)

 

アルブレヒト5世は1550年からバイエルンを統治し、反宗教革命を唱える。レジデンツの建設、エジプト美術収集館などを設立しドイツで初めての博物館を建設する。彼が芸術の都ミュンヘンの基礎を作った。彼のお墓は聖母教会にある。

 

レーニン Lenin Wladimir Iljitsch (1870-1924)

 レーニンの家

旧ソ連邦の政治家レーニンは、ミュンヘンに住んでいて革命の構想を練っていた。レーニンの住んでいた家が残る。

 

音楽

リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss (1864.6.11-1949.9.8)

 リヒャルト・シュトラウス

ミュンヘン生まれの作曲家で指揮者のリヒャルト・シュトラウスはバイエルン歌劇場のホルン奏者を父に、ビール屋の娘を母に持つ。リヒャルト・シュトラウスは近代ドイツ最大の作曲家として知られる。彼は1886-98年の間、ミュンヘンの指揮者として活躍した。ミュンヘンでの彼の最初のオペラは『グントゥラム Guntram』(1894)。ミュンヘン初演の彼の作品は『平和の日』『カプリッチョ』がある。またミュンヘンを舞台にしたオペラ『フォイヤースノート』も手がけた。またミュンヘンの名門オーケストラ、バイエルン放送交響楽団の1949年7月13日に行われた創立特別演奏会を指揮している(85歳)。ミュンヘンには彼の名前の付いたリヒャルト・シュトラウス音楽院という学校がある。また彼が生まれた場所にはそれを示す碑があり、その他に彼の名にちなんだリヒャルト・シュトラウスの泉もある。左の写真はバイエルン州立歌劇場にあるもの。ミュンヘンの名誉市民。

 

リヒャルト・ヴァーグナー Richard Wagner (1813.5.22-1883.2.13)

ヴァーグナー像

ライプツィヒ生まれのヴァーグナーは窮乏のどん底にいた1864年、バイエルン王ルートヴィヒ2世によってミュンヘンに呼び出された。その後彼は王の支援の元、成功する。『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『妖精』の初演がミュンヘンでなされ、また『ニーベルングの指環』のうち『ラインの黄金』『ヴァルキューレ』の初演もミュンヘンで行われた。ミュンヘンにあるプリンツレゲンテン劇場はヴァーグナーのために建てられた劇場。また彼が住んでいた家跡にはそれを示す碑が残っている。左の写真はプリンツレゲンテン広場側にあるヴァーグナー像。

 

カール・オルフ Carl Orff (1895.7.10-1982.3.29)

 カール・オルフの像

ミュンヘン生まれの作曲家カール・オルフは人生のそのほとんどをミュンヘンで過ごした。彼は指揮者として、また音楽教育学者として成功した。彼の最も有名な音楽作品は『カルミナ・ブラーナ』(1937年)。また教育面で彼は新しい音楽教育を作り、また例えば簡単な打楽器によるものなど、新しいスタイルのオーケストラを作ることに重要な役割を果たした。また彼は音楽療法の面にも従事した。彼のお墓はアンデックス修道院教会にある。左の像はバイエルン州立歌劇場にあるもの。

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)

モーツァルトの碑 

モーツァルトは1763年7歳の時に姉ナンネルと共にミュンヘン・ニンフェンブルク城を訪れ、選帝候マクシミリアン3世ヨーゼフの前で演奏を行う。またミュンヘンにあるクヴィリエ劇場のために1781年オペラ『イドメネオ』を書き、そこで初演された。彼の望みはミュンヘンの宮廷作曲家になることだったが、採用はされなかった。彼の作品でミュンヘン初演のオペラは他に『偽の女庭師』がある。彼が住んでいた場所にはモーツァルトの碑がある。

 

カール・マリア・フォン・ヴェーバー Carl Maria von Weber (1786-1826)

 C.M.フォン・ウェーバーの像

カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)は1799年、ミュンヘンの彼のの家で彼の初めてのオペラを書いた。その家跡が残る。彼は当時13才であった。左の像はバイエルン州立歌劇場にあるもの。

 

ハンス・クナッパーツブッシュ Hans Knappertsbusch (1888.3.12-1965.10.25)

 ハンス・クナッパーツブッシュの像

指揮者。ミュンヘン大学でも勉強したハンス・クナッパーツブッシュはブルーノ・ヴァルターの後任としてバイエルン州立歌劇場の音楽総監督に就任した。彼のお墓がボーゲンハウゼン墓地にある。左の像はバイエルン州立歌劇場にあるもの。ミュンヘンの名誉市民。

 

オルランド・ディ・ラッソ Orlando di Lasso (1532-1594.6.14)

 オルランド・ディ・ラッソ像

オルランド・ディ・ラッソは1556年、バイエルン公アルブレヒト5世の招きを受け、宮廷楽団のテノール歌手として活動を始め、ミュンヘンの宮廷指揮者となり、また当時最も有名な作曲家となった。1563年には楽団長になり、1594年ミュンヘンで亡くなった。彼はラテン語の宗教曲、フランス語のシャンソン、ドイツ語のリートなど1200曲以上の作品を書いた。

 

 文学・学者

 トーマス・マン Thomas Mann (1875.6.6-1955.8.12)

 トーマス・マンの家

リューベック生まれのトーマス・マンは彼の父の死後、家族でミュンヘンに引っ越しした。彼は1894年ミュンヘン保険会社で見習いとして働き、1898-99年風刺雑誌の編集者となる。1905年に結婚し、ここで彼は大きく飛躍する。『ブッデンブローク家の人々』(1901年)、『ヴェニスに死す』(1912年)、『魔の山』(1924年)と作品を世に送り出し、1929年ノーベル文学賞を受賞する。しかしナチズムの発展を機に1933年ミュンヘンを離れる。左の写真は『ブッデンブローク家の人々』を書いた家にある碑。

 

ミヒャエル・エンデ Michael Ende (1929.11.12-1995.8.28)

 ミヒャエル・エンデ博物館

バイエルン州ガルミッシュ・パルテンキルヒェン生まれのミヒャエル・エンデは2歳の時にミュンヘンに引っ越しする。第二次世界大戦中(終戦前)反ナチスグループに参加。戦後ミュンヘンの演劇学校に入学し、後に、歌や小劇を書く。『ジムボタンの機関車大冒険』がドイツ児童文学賞を受ける。ミュンヘンにはミヒャエル・エンデ博物館とエンデのお墓(森林墓地)がある。

 

エーリヒ・ケストナー Erich Kaestner (1899.2.23-1974.7.29)

 エーリヒ・ケストナーのお墓

ドレスデンで生まれたエーリヒ・ケストナーは第二次世界大戦後ミュンヘンに定住した。1945-48年、新聞の文芸欄の編集長となる。またミュンヘンの寄席などにも協力した。1949年には『二人のロッテ』を発表する。1974年になくなるまでミュンヘンに住んでいたケストナーのお墓はボーゲンハウゼン地区聖ゲオルグ教会にある。また彼の住んでいた家が残る。

 

ハインリヒ・ハイネ Heinrich Heine(1797-1856)

 フィナンツ庭園のハイネ記念碑

ミュンヘンで一時期生活をしていた(レヒベルク宮殿に滞在していた)彼はバイエルン王ルートヴィヒ1世のもとで大学教授になる夢を持っていたが実現しなかった。彼が住んでいた場所にはその碑があり、またフィナンツ庭園にはハイネ記念碑がある。

 

ゲーテとシラー

 ゲーテ像 シラー像

ゲーテはミュンヘンを訪れているが、シラーは不明。かつてカール広場北にはバイエルン王ルートヴィヒ2世の命によって建てられたゲーテ像があったが現存しない。シラー像はバイエルン王ルートヴィヒ1世の命によって建てられたもの。

 

ライナー・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke(1875-1926)

 リルケの家

ミュンヘンに1914-1919年の間住んでいたリルケの家がある。

 

マックス・ヴェーバー Max Weber(1864-1920.6.14)

 マックス・ヴェーバーの碑

ミュンヘンに1919-1920年の間住んでいたヴェーバーの家がある。

 

リオン・フォイヒトヴァンガー Lion Feuchtwanger (1884.7.7-1958.12.21)

 

ミュンヘンで生まれた作家リオン・フォイヒトヴァンガーはミュンヘンで最も有名なユダヤ人で、ベルリンで文献学と哲学を勉強したあとミュンヘンに戻り、1927年まで過ごした。1930年の作品『Erfolg』でミュンヘンについて、当時の歴史(インフレの時代、ヒトラーの一揆)を叙述し、ナチスの危険性を説いている。アメリカ・カリフォルニアに亡命したときの隣人はトーマス・マン、カティア夫妻であった。

 

アンネッテ・コルプ Annette Kolb (1870.2.3-1967.12.3)

 アンネッテ・コルプのお墓

ミュンヘンで生まれた女性作家アンネッテ・コルプはドイツ人とフランス人の親を持つ。第一次世界大戦で平和を訴えた。第二次世界大戦後はいくつもの自伝の中で女性の運命を描き、また歴史的なテーマ(ルートヴィヒ2世、リヒャルト・ヴァーグナーなど)についても書いている。翻訳家としても有名。彼女のお墓はボーゲンハウゼン地区聖ゲオルグ教会にある。

 

ゴットフリート・ケラー Gottfried Keller (1819-1890)

 ゴットフリート・ケラーの碑

「緑のハインリヒ」で有名なスイスの作家、ゴットフリート・ケラー(1819-90)が1840年ミュンヘンで住んでいた家がある。

 

フランク・ヴェーデキント Frank Wedekind (1864-1918)

 ヴェーデキントの碑

作品「春の目ざめ」などで有名なドイツの劇作家フランク・ヴェーデキント(1864-1918)が住んでいた家がある。

 

ルートヴィヒ・トーマ Ludwig Thoma (1867.7.21-1921.8.25)

 ルートヴィヒ・トーマの胸像

ミュンヘンで林学と法学を学んだルートヴィヒ・トーマは1893-99年の間、ミュンヘンとダッハウで弁護士として働いた。1899年に政治雑誌の編集を引き受け、1907年には雑誌『三月』の編集者の一人となる。彼はユーモアのある諷刺的な詩、小説、物語を執筆した。左の胸像は名誉堂にあるもの。

(絵画彫刻、建築、工業技術、役者は「ミュンヘンと有名人 その2」にあります。)

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