1923年11月9日、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラーはクーデター「ミュンヘン一揆」を起こすが失敗し、その後武力による政権奪取ではなく民主主義の枠の中で合法的に活動するよう戦術転換して、1933年政権を獲ることに成功した。そしてミュンヘン一揆の際、国家社会主義者と警官隊が衝突した場所(将軍堂横)にはそのことを示す記念碑が設置され(1945年撤去)、SS(親衛隊)がその神聖な場をいつも警備するようになった。同時にその一揆で犠牲になった国家社会主義者たちに敬意を示すよう、この碑の前を通る者はナチス式敬礼(右手を伸ばして挙げるもの)が義務づけられた。
ミュンヘン市内の中心部マリエン広場からオデオン広場に行くには一般的にはレジデンツ通りかテアティーナ通りを利用する。敬礼の義務づけされた箇所はレジデンツ通りにあり、そこを通る全ての人は敬礼をしなければならなくなった。そこで敬礼をしなくてすむように迂回路が考えられた。14世紀のミュンヘンの地図に既にその道が確認されるヴィスカルディ小径(当時は名前が違っていた)を通り、レジデンツ通りからテアティーナ通りへ抜けるというものだ。
ヒトラー政権時には、政権に対して公然と反対する者がいたわけではないので、この碑の前を通る際の敬礼義務にも反対する人がいるわけではなく、敬礼は当然のこととなっていた。それにもかかわらず、迂回する者は自分の責任を果たさない者、卑怯者といった風に言われ、この通りは“卑怯者の小径”と呼ばれるに至った。第二次世界大戦後(現在においても)、過去のことを忘れないために、この通りを正式に「卑怯者の小径」とするべきだという意見が出ている。またこの道の中央には金色の敷石(実際は銅)が見えるが、これは芸術家ブルーノ・ヴァンクが静かなる抵抗の意志として表現したものである。
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