やまねこの物語

散歩 中世におけるミュンヘンとユダヤ人

ミュンヘンには市が創設されて間もない頃、“Abraham de Municha”と呼ばれるユダヤ人が生活しており、彼は1229年にミュンヘン初のユダヤ人として記録されている。彼はレーゲンスブルクのユダヤ人が創設した団体におそらく所属していただろうとされる。ところでミュンヘンで亡くなったユダヤ人はレーゲンスブルクにあるユダヤ人墓地に埋葬されなければならなかったが、1416年になってようやくミュンヘンにも彼らのための墓地が定められた。当時は市の郊外であった現在のダッハウ通りとガーベルスベルク通りの交差する場所にあたる。

ミュンヘンにおいてユダヤ教の礼拝は個人の部屋などで行われていたが、1380年ミュンヘンで初のシナゴーグが先述の現マリエンホーフ内に建設された。ところでミュンヘンには特定のユダヤ人地区というものは存在せず、ユダヤ人は街中に住んでいた。彼らは宗教的浄めの儀式に水を必要としていたが、彼らは市内を流れる川や小川から水を汲むことは許されず、雨水か地下水を汲み上げなければならなかった。また同時に市内の浴場などを使用するのも禁じられた。

ミュンヘンにおいてユダヤ人は税金が高かったにもかかわらず、市民権が無く、また職業的にも制限されていたので、彼らが中世の街で生き残ることが出来たのは金銭的な取引商売だけであった。しかし当時ミュンヘンではリグザルツとゼントリンクという二つの名士も同じような商売に従事していた。つまりユダヤ人は商売的にもキリスト教徒と競争しなければならず、また「利子を取る者」だったので市民に親しまれていたわけではなく、平和に生活することは難しかった。

ミュンヘンではユダヤ人に対する集団的凶行はすでに1285年に行われていた。市民は彼らを一箇所に集め、火を放った。結果180人(一説には67人。180人説が圧倒的に多い)犠牲になった。また1345年にはキリスト教徒の子供に対し祭式的殺人がユダヤ人によって行われているという噂が拡がり、ユダヤ人は迫害を受けた。この噂はヨーロッパ中で拡がっており20世紀になってようやく静まった。

1349年には、ユダヤ人がペストを街に持ち込み、泉に毒を流し込んだということで、大公ルートヴィヒ5世が止めたにもかかわらず、市民はユダヤ人を街から追放した。大公は結局彼らを連れ戻し、2年間ユダヤ人税を免除した。1413年にも再度ユダヤ人に対する集団的凶行が行われた。これはユダヤ人が儀式のために女性を刺すという噂からであった。ある女性は恐怖のあまり当時のシュヴァービング門近くで、聖別した聖体を落としてしまったため、その後ここには礼拝堂が建てられた(現ザルヴァトァ教会、現ギリシャ正教)。

1442年ついには大公アルブレヒト3世によってユダヤ人はバイエルンからの追放が定められた。しかし街はユダヤ人を追放したが、シナゴーグは破壊せずにいた。というのは彼らはそれを聖別し新たな教会にしたからであった。その後それらの教会は1803年の教会財産の国有化の際、売却され取り壊された。

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