・ ハインリヒ・ハイネ
Heinrich Heine (1797-1856) ハイネは28歳の時、プロテスタントに改宗し、法学の国家資格を得るため勉強をしていた。彼はドイツ語研究の教授を当てにして1827年ミュンヘンにやって来た。しかし彼はバイエルン王ルートヴィヒ1世と明らかに敵対し、その夢が実現することはなかった。というのは詩人としてハイネは王の叙情詩を王が気に入るように評価しなかったということ、ミュンヘンとミュンヘン人についてハイネが良い印象を述べなかったことに帰する。また「近代におけるミュンヘンとユダヤ人」で述べたナニーという女性の夫、ハンブルクのサロモン・ヨーゼフ・ハイネはハインリヒ・ハイネの親戚である。
・ トーマス・マン Thomas
Mann (1875-1955)とカティア Katia (1883-1980) トーマス・マンはユダヤ人ではなかったが、彼はその人生の約半分(1893-1933)をミュンヘンで過ごし、ミュンヘンのユダヤ人ではあるが名士で、有名な数学教授の娘であったカティア・プリングスハイムと結婚した。彼女自身もミュンヘン大学で数学を専攻した。トーマス・マンはここでトーマス・テオドール・ハイネ(1876-1948、詩人ハイネとは関係がないがユダヤ人)と政治風刺雑誌「Simplizissimus」のために活動した。また『ブッデンブローク家の人々』(1901年)、『ヴェニスに死す』(1912年)、『魔の山』(1924年)と作品を世に送り出し、1929年ノーベル文学賞を受賞した。しかしナチズムの発展を機に1933年ミュンヘンを離れる。
・ リオン・フォイヒトヴァンガー
Lion Feuchtwanger (1884-1958) ミュンヘンで生まれた作家リオン・フォイヒトヴァンガーはミュンヘンで最も有名なユダヤ人で、ベルリンで文献学と哲学を勉強したあとミュンヘンに戻り、1927年まで過ごした。アメリカ・カリフォルニアに亡命したときの隣人はトーマス・マン、カティア夫妻であった。
・ アルベルト
と アルフレード・アインシュタイン
Albert (1879-1955)、Alfred Einstein (1880-1952) ウルムで生まれたアインシュタインは1才にならないうちに家族でミュンヘンに引っ越し、ミュンヘンの学校に通っていた。1894年スイスに引越。ミュンヘンにあるアインシュタイン通りは彼の名前から取られたものではなく、彼のいとこで音楽研究家であったアルフレードに帰する。アルフレードは1933年イギリス、イタリアへと渡りアメリカへ亡命した。
・ ヨーゼフ
と ヘルマン・シューライン Joseph 、Hermann Schuelein (1884-1970) ヘルマン・シューラインと彼の父ヨーゼフはビール会社レーヴェンブロイの総支配人として有名な一家であった。しかしナチスが「ユダヤ人のビールは飲まない」と、ヘルマンがニューヨークに亡命するまで不買運動をした。彼はニューヨークで新たなビール会社
Rheingold-Beer-Brewery を設立し、それは現在も操業している。
・ マックス・リットマン
Max Littmann (1862-1931) ミュンヘンで活躍したユダヤ人建築家。彼は義理の父と20世紀の初め最も有名な建築事務所、Heilmann
& Littmann (現 Heilit und Woerner AG)を設立し、ホーフブロイハウスの改築、プリンツレゲンテン劇場、シャックギャラリー、デパート「ヘルティ」などを建設した。
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