散歩 二つの世界大戦期におけるミュンヘンとユダヤ人 |
第一次世界大戦後ヨーロッパの諸侯は戦争責任をとって退位させられたが、同時に反ユダヤ主義が強くなった。ドイツの敗北は革命という、ユダヤ人や社会主義者たちの背後からの一突きによるという、いわゆる『匕首伝説』を信じる人が多くなった。ミュンヘンでは1918年11月3日、ベルリン生まれのユダヤ人でドイツ独立社会民主党指導者クルト・アイスナーによって平和要求デモが行われ、11月7日には社会民主党指導の大デモが発生した。20万人のデモは革命に拡大し、翌8日早朝アイスナーはヴィッテルスバッハ王朝の廃止とバイエルン共和国の成立を宣言し、組閣を行った。 彼はバイエルン共和国の初代首相兼外相として自由選挙を実施したが、彼の所属する政党、ドイツ独立社会民主党は全156議席中、わずか3議席にとどまった。その結果を受け彼は辞職演説をするために議会に向かった1919年2月21日、その途中で反対派の騎兵隊将校ヴァーレ伯爵に暗殺された。伯爵は当時22歳でトゥーレ協会に属していた。この団体はバイエルンで結成され、ナショナリズムや神秘主義、オカルトの研究に力を注ぎ、民族至上主義、反ユダヤ主義を唱え、ナチスの先駆的活動を展開していた。 アイスナーが暗殺されたことによりバイエルン議会は中断する。アイスナーはベルリンのヴァイマール政府との外交関係を絶つなど、バイエルン分離主義者として利用されていた。バイエルンは伝統的にプロイセンとプロイセン的なるものの全てを嫌っており、ヴァイマール共和国の成立自体もバイエルンの首都ミュンヘンではほとんど無視されていた。アイスナーの遺骨は最初、ミュンヘン東墓地に埋葬されていたが、ナチスによって掘り起こされ、新イスラエル墓地に埋葬された。また同じ墓地には1919年5月2日暗殺された、作家でバイエルン・レーテ共和国の評議会委員であったグスタフ・ランダウアー(1870-1919)の墓もある。 第一次世界大戦に敗戦後のインフレや世界恐慌などの不穏な情勢の中、ドイツ国内で反ユダヤ主義が強くなりつつあった。1933年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を執ると、同年4月1日「ボイコットの土曜日」と称して、市民はユダヤ人商店、病院、弁護士などとの交流をボイコットするべきだとされ、多くのユダヤ人商店などにプラカードが掲げられたり、「落書き」がなされた。 1938年6月7日、ヒトラーを乗せたメルセデスがミュンヘン中央シナゴーグの横を通り過ぎた。その翌日ユダヤ団体の代表は内務省に呼ばれ、総統がユダヤ人の建物を見たくないという理由でミュンヘン中央シナゴーグの取り壊しが決まったことを述べられた。翌6月9日早朝からシナゴーグの取り壊しが始まり、新聞は「ドイツで最初のシナゴーグの暴力的破壊」との見出しでこれを報じた。 そのちょうど5ヶ月後ドイツ全土で『水晶の夜』と呼ばれるユダヤ商店での略奪、シナゴーグへの放火、ユダヤ人の恣意的虐殺、逮捕が行われた。これは宣伝相ゲッベルスによる組織的なユダヤ人大迫害で、ドイツ全土の警察や消防もそれを邪魔してはならないとの電報がゲシュタポ(国家秘密警察)によって発せられた。ミュンヘンのオヘル・ヤコブ・シナゴーグも炎に包まれたが、消防は隣の家々に火が回るのを防いだだけであった(現在シナゴーグ跡は空き地)。『水晶の夜』で逮捕されたユダヤ人はダッハウ強制収容所へ送られたが、翌週か翌月、ドイツのアーリア人化に賛成することを条件に解放された。結果1933年ミュンヘンには9005人のユダヤ人がいたが、1939年には4407人となった。 またミュンヘン・イスラエル宗教団体は全員の解放を要求し、1938年11月から彼らが営業するタバコ工場の操業を中断した。この工場はアルベルト・アインシュタインの叔父であるヤコブが設計したもので、戦後その場所には新たに建物が建設され市民大学として利用されている。 1917年から1952年までミュンヘン・フライジング大司教区の大司教であったミヒャエル・カーディナル・フォン・ファウルハーバーはカトリックの立場から反ナチスの意志を持っていたが、ユダヤ人問題に関してはほとんど黙っていた状態であった。 1930年代、反ユダヤ主義はドイツだけでなく、フランス、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、チェコ=スロヴァキア、ポーランド、リトアニアなどヨーロッパ各地で存在し、ユダヤ人への路上襲撃、住宅放火、店舗破壊、略奪は珍しいことではなかった。 1939年4月からナチスによるミュンヘン市内からのユダヤ人追放が始まり、ユダヤ人が住んでいた家々はドイツ人所有とされたり、また別の場所はユダヤ人共同住宅として利用されるようになった。1941年10月まではユダヤ人も国外移住のチャンスがあったが、同年11月20日国外移住の自由が無くなり、ユダヤ人は一ヶ所に集められるようになった。彼らはミルベルツホーフェン地区に集められ、強制労働に従事させられた。そこは鉄道に繋がっており、そこに集められるということは、ミュンヘンから、テレージエンシュタット、カウナス、ピアスキ、アウシュヴィッツへの追放を意味していた。ミュンヘンではそのミルベルツホーフェン地区が第一のゲットー(ユダヤ人居住区域)とされ、ミュンヘン第二のゲットーとしてベルク・アム・ライム地区聖ミヒャエル教会の修道院の建物がその役割を果たした。 戦争が終わったあとの数年、ミュンヘンとその周辺には絶滅収容所へ送られる予定であった、合計約120.000人のユダヤ人がいた。1947年には戦後のドイツで初めて、ミュンヘンの東ユダヤ人のシナゴーグが再び聖別された。今日、ミュンヘンには旧ソヴィエト連邦からのユダヤ人が増えており、ミュンヘン市長であるクリスチャン・ウーデ(2002年現在)もユダヤ人がミュンヘンでドイツ人と共同生活することに理解を示している。 ・「中世におけるミュンヘンとユダヤ人」 ・「ミュンヘンとユダヤ人」トップ |
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